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礼拝メッセージより
説教題:「限界」 2003年6月1日
聖書:箴言 10章24節、20章24節
ホータン川
この前夜中にテレビを見ていたら、中国のタクラマカン砂漠で夏の3ヶ月間だけ流れるホータン川のことを放送していた。近くの5000メートル級の山の雪と氷河が溶ける夏の間だけ砂漠の真ん中をその川が流れるそうだ。その川の水を水路を使って畑に水を流して作物を作るのに、ある一軒の農家は水道局に払う5万円のお金がなくて、収穫の後に払うということを了承してもらってやっと水を流してもらったということだった。ここの川はその年の天候によって流れる時期も変わるようで、前の年は遅かったのでほとんど収穫できなかったと言っていた。
呉にいると水なんてあたり雨にあるように思ってしまうが、実際はそれほど当たり前にあるわけではないらしい。四国の松山の川は普通は水がないそうで、ほとんどいつも水不足だそうで、市役所が節水のために食器洗浄機を買うようにと勧めているそうだ。そのための補助金も出してくれるらしい。
水は水道の蛇口をひねれば出てくるようになっているけれども、その元は結局は天候に左右されている。雨が少ないと断水してしまう。水だけではなく、私たちが生きていくために必要なものはみんなそこに準備されているから手に入いるわけで、自分の力でどうにかなるものではない。何もかも外から与えられるようになっている。
自分の力
私たちは何も知らない。どうしてここに生まれ、どうしてここにいるのか。一体どうやって今まで生きてきたのか、生きてこられたのか。あまり意識することもない。なんとなく自分の力で生きてきたように思っている。
確かに自分の力で生きてきた所もある。食べていくだけの給料を稼いできた。それだけの苦労もしてきた。自分の力でここまでやってきた、誰の助けも受けず、たまには受けてきたが、それなりに自分の力によって生きてきた、と思っている。自分のすべきことはやってきたかもしれない。しかし水だって自分で作れないし、空気だって作れない、そう考えるとほとんど全部与えられて生きているということになりそうだ。
迷惑
ここからはちょっと屁理屈かもしれないが。
よく、人の迷惑をかけることだけはするな、という言葉を聞く。親が子どもに対して、何をやってもいいが人に迷惑をかけることだけはするな、というようなことをよく言うらしい。その言葉がやっぱり気になる。なるべく迷惑をかけないようにしなさいとか、周りの迷惑を顧みず自分勝手なことばかりするな、というような意味で言っているのだろうということは分かる。けれども、やっぱり気になる。
人に迷惑をかけることはそれほどに赦されないことなのだろうか。そもそも人に迷惑をかけないで生きていくことなど出来るのだろうか。そして迷惑をかけないことを目指すことが人間にとって一番大事なことなんだろうか。もちろんわざわざ迷惑をかけた方がいいなんてことは思わないが、迷惑をかけないで生きるなんてことは所詮無理な話しではないかと思う。そうすると、そんな出来もしないことを目指すなんてことはどこかおかしなことのような気がする。人は誰でもいろんな人の世話になって生きている。自分のためにいろんなことをやってもらって初めて生きていける。面倒をかけたり、時には傷つけたりしながら生きている。そんないろんないろんな迷惑をかけないのが一番いいならば、無人島に行ってひとりで生きるしかないだろう。誰とも接触しないでいることが一番迷惑をかけない。でもそれでは人は生きていけない、だから人に迷惑をかけないで生きるなんてことは無理だろう。
ならば、自分が迷惑をかけて生きていることを自覚して生きていくことが大事なのではないか。自分は迷惑をかける人間であるし、人は誰もが迷惑をかけてながら生きている、ならば自分も誰かから迷惑をかけられることもある、そういうことを認めて生きていく、相手からの迷惑も引き受けて生きていくこと、それが大事なのではないか。そうやって迷惑をかけあいながら生きていくことが人間らしい生き方なのではないかと思う。
私は人に迷惑をかけないようにしています、という人ほど自分のかけている迷惑に気づきもしないということも多いし、人に迷惑をかけてないんだから私が何しようと勝手でしょう、と言って迷惑をかけ続けているなんてこともあるのではないか。
限界
迷惑をかけないで生きていけないように、人は何もかも自分だけで生きていくことはできない。自分に必要なものを何もかも自分で準備して生きていくことはできない。人間は、この地球の上に、空気と水とがあるこの中に生まれてきた。空気も水も自分で準備して生きている訳ではない。水道代は払っているが、その水も結局は空から降ってきたもので、自分で雨を降らすことはできない。
人が自分の力だけで生きていくなんてことはそもそもできない相談だ。人は生かされて初めて生きていける。
箴言は、「人の一歩一歩を定めるのは主である。人は自らの道について何を理解していよう」と語る。人は神によって生かされているというのだ。自分の力によって生きていくことができない生き物であるらしい。そして自分の人生についても分からないことだらけだ。この先何が起こるか、どういう人生が待っているのか、結局は分からない。ある程度の予測はつくし、ある程度願いを叶えることもできる。けれども全体を見渡すことはできない。まるで山をいくつも越えながら度をしているようなものだ。ひとつの山の頂きに達すると次の山までの道は見える、けれども次の山の向こうにどんな道が待っているかは次の山に登るまでは分からない。そしてその道は私たちの願ったとおりの道とは限らないし、しばしば願ってないような道となっていることが多い。人はいろんな願いを持つがなかなか思うようにいかないのが現実だ。
どもを持つときに男がいいとか女がいいとか願う。確率はほとんど二分の一である。それでさえなかなか思うようにいかない。「人は自らの道について何を理解していよう」と言われるように、人は自分の道についても何も分かっていない。今後どのような道が待っているのか分かっていない。
定めるのは主
まるで霧の中をさまよっているかのような、あるいは真っ暗闇の中を進んでいるかのようなものかもしれない。一寸先は闇、と言う感じである。明日まで命があるかどうか分からない、というのが私たちの現実でもある。そう思うとなんだか不安だらけになりそうだ。
けれども箴言は、人は自らの道を理解してはいないけれども、その人の一歩一歩を定めるのは主である、と言うのだ。私たちは自分のすぐ未来のことも分からない、どうやって生きているのかも分からない、けれどもその私たちの一歩一歩を定めるのは主である、神であるというのだ。人は神の定めによって生かされている、神の定めに従って進んでいる、というのだ。濃い霧の中を歩いているかのようであるが、あるいは真っ暗闇の中をさまよっているかのようであるが、けれども神が私たちの一歩一歩を定めてくれているというのだ。
自分の力だけで生きていかねばならないとしたらどれほど大変ことだろう。何が待っているかわからない、いつ何が起こるか分からない人生を私たちは歩んでいる。そこを自分一人で自分の力だけで、自分で道を探して生きていけと言われたら大事だ。しかし私たちの一歩一歩も主が定めてくださっている、と聖書は語る。私たちは神によって生かされ、神に導かれている生きているというのだ。私たち自身の力は微々たるものである、けれども神が生かしてくれているから生きていける。そんな神のみ手の中に私たちは生かされているのだ。いろんなことに心配したり、不安になったりすることもある。死ぬことを真剣に考えると恐ろしくなる。でもそんな私たちも神は生かしてくれている、その手の中で抱きかかえてくれているのだろう。そうやって神は私たちを生かしてくれているのだろう。