前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
説教題:「貧者の尊厳」 2003年5月25日
聖書:箴言 14章31節、17章5節
金持ち
先日高額納税者なんてニュースがあった。一人で何億円も税金を払う人がいるなんていうはなしだった。1年間で何億も収入があったらどんなだろうかなんて想像する。スポーツ選手の中には毎年何億も何十億も稼ぐ人もいるらしい。一体そんなにお金もらってどうするのかと思うくらいだ。
けれどなんでそんなことが可能なんだろうかと思う。お金があるところにはどんどんお金が集まるのだろうか。そもそもお金なんていうものがあるからこんなことになっているんじゃないのかなんて思ったり。お金がなかったらこんなことは起こらないのではないかと思ったりする。給料がお金じゃなくて現物支給だったらどうなるのかななんて。米や肉や野菜を毎年何億円分も貰うなんてことは起こり得ないような気がする。
お金があるから生活は便利にはなったんだろうと思う。けれどお金があるから、生きていくために必要な分の何倍も何百倍もの給料を手にする人が現れるというような変なことが起こってきているんじゃないのかという気もする。食べ物をくれるとしたら、自分たち家族の食べる分だけで充分、それ以上はもらっても困るということになりそうだけど。
貧者
しかしとにかく現実の社会はお金によって、動いている。そしてそのお金はみんなに公平に分配されているわけではない。財産を多く持つ者も、少ない者もいる。
ところでどうして世の中には金持ちと貧乏人がいるのだろうか。今の社会の仕組みがそうなっているから当然といえば当然。みんなが何もかも同じように分け合って、同じようにしましょうというような共産主義のような社会で社会であればそうでもないのかもしれないが、どうもそういう社会ではないらしい。何もかも平等にするべきである、という気持ちも分かるけれども、どうすれば平等になるのかということもなかなか難しい。
神の前に平等であるはずだ、ということも聞く。神にとっては、神の目からは平等なのかもしれないが、それは私たちがみんな同じであるということとは違う話なのだと思う。生まれも育ちもみんなそれぞれに違う。顔も性格もみんなそれぞれ違う。みんな違うように造られているのだ。それぞれ持っている才能も違う、財産も違う。同じではない。そう考えると金持ちがいたり、貧乏がいたりすることが当たり前なのではないかと思う。
問題はそこからで、ではみんなそれぞれ違うんだから、もう仕方ない、そんなものだからあきらめるしかないということで終わってしまうのかどうか、ということだ。貧乏人は稼ぎが悪いからそうなったんでもう仕方ないよ、という事なのかどうか。
被造物
弱者と訳されている言葉は、貧者とも訳せるそうだ。弱者を虐げる者は造り主を嘲る、つまり神を嘲ることになるというのだ。富める者も貧しい者も同じ神によって造られた者である。その同じ神から造られた者に対して、貧しいからということで虐げるということはそれは造り主である神を虐げることである、というのだ。造り主である神を尊ぶ人は、乏しい貧しい人を憐れむという。
神は貧しい人を放っておかない、憐れむという。イエスも、最も小さい者にしたことは私にしたことである、といっている。
マタイによる福音書
25:31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
25:32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
25:33 羊を右に、山羊を左に置く。
25:34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
25:37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
25:38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
25:39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
25:40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
貧しい者にしたことはイエスにしたことなのだというのだ。
理由はどうあれ、金持ちがいて貧しい者がいるのが私たちの今の社会現実だ。しかしそれをそのまま仕方ないとあきらめるだけ、放っておくだけではいけないと神はいうのだ。他の人のことなど構っていられない、というのは神の御心に適わないことなのだという。それはキリストを否定することであるというのだ。
祝福
貧しい者を省みる、憐れむこと、それは貧しい人のためになるだけではなく、自分のためでもある、という。
箴言11:17には「慈しみ深い人は自分の魂を益し/残酷な者は自分の身に煩いを得る。」と書かれている。情けは人のためならずという言葉もある。
神はどうしてこの世の中に金持ちと貧乏人を造ったのか、と思う。どうしてか、それはよく分からない。けれども、その貧富の差を人が埋めていくようにと神は言われている。金持ちが貧しい者を搾取したりさげすんだりするのではなく、憐れむように、省みるようにというのだ。
お金を持つと逆にお金に縛られるということが多い。自分のお金をなんとか守ろうとして、自分のお金だけは何とか減らさないようにしたいと思い、その分余計な心配をし、余計な争いを起こすようことがある。何も持たない間はお互いに仲良くできるのに、いろんなものを持つことで争ったり奪い合ったりすることもよくある。財産を持つことで、豊かになれるはずなのに、反対に淋しい思いになってしまうとしたらそれはとても悲しいことだ。豊かであるということは、自分がどれほど財産を持っているかというよりも、隣人との交流がどれほどあるかということなのかもしれない。財産を持つことでその交流が途絶えてしまうとしたら、それはとても貧しい生き方になってしまうのではないかと思う。
主の祈り
主の祈りの中に、「我らの日用の糧を今日も与え給え」というのがある。今日一日の糧を与えて下さいという祈りをするようにとイエスは言われた。そしてこの祈りは、我らの、となっている。私たちの今日の食べ物を与えてくださいという祈りなのだ。私たちとは誰のことか。家族のことか、教会に来ている者のことか、キリストを信じる者か、もちろんそうだろう。しかしそれだけに限定されず、結局はこの世に生きている全ての者のことだろう。私たちすべての人類の食べ物を今日与えて下さい、というのが主の祈りなんだろうと思う。
これはある牧師の説教の中に書いてあったことだが。
神さまみんなの食べ物を与えて下さいと言い、またそれに対して神からの声を、つまりみんなが今日の食べ物をもらっていくために自分が何をしていくのか聞いていく、それがこの主の祈りを祈るということであるのだろう。
今この時を一緒に生きている隣人のことを配慮しつつ、共に生きていくこと、自分の持っている者を分け合いながら生きていくこと、それが神の御心のようだ。持っている者を分け与えたり、また分けてもらったりしつつ生きていくこと、本当はそれこそが豊かな生き方なのだろう。そして世界の中には満足に食べられない人が実に大勢いるそうだ。世界の半分の人は栄養失調なのだそうだ。そうするとのんびりと考えている状況ではないのだろう。世界の富をどう配分していくか、それはとても大事な難しい問題だ。けれども持つ者が持たない者に与えていくということが出来ていくならば、問題は随分解決していくような気がする。
私たちは財産を平等に与えられているわけではない。私たちはいっぱい持っている国にいる。けれどもそれは持っていない者たちへ分け与えるようにと神が私たちに預けているものなのかもしれない。
貧しい人はなまけているからそうなってしまったのだからそんな人のことは放っておいていいのではないかという考えもあるだろう。しかし貧しい地域に生まれた人が金持ちになるのは至難の業だ。逆に私たちがそれなりのお金を得ているからといって、それほど大した何かをしたというわけでもない。ほとんどたまたまそこに生まれたということで金持ちになったり貧しくなったりすることが多い。
どこに生まれようと、同じ神に造られた者同士なのだ、と聖書は言う。だからお互いを大事にして生きるようにということだろう。自分の分を与えることは自分の分が減ることである。苦しむ者を助けるには、その分相手の苦しさを自分が分けてもらうということでもある。しかしそうすることが本当は豊かな生き方なのだと思う。貧しさも苦しみも大変さも、少しずつ分け合う、その分相手の貧しさも苦しみも大変さも減っていく。こっちが貧しく苦しく大変になることで相手の大変さが減っていく、なかなかそんなことは出来ない、けれどもそうすることが実は豊かな充実した生き方になるのだろう。