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礼拝メッセージより
説教題:「知恵の誕生」 2003年5月11日
聖書:箴言 8章12-31節
擬人法
知恵が語りかける。熟慮と共に住まい、知識と慎重さを備えている、と。
主を畏れることは、悪を憎むこと。神を信じるということは悪を憎むことでもある。また知恵は傲慢、驕り、悪の道、暴言を吐く口を憎む、という。
知恵の反対が、傲慢や驕り、悪の道、暴言を吐くことであるということなのだろう。知恵は私たちを悪の道から遠ざけるためのものでもある。
愛
知恵は人間と愛を基とした関わりを持つという。17節に「わたしを愛する人をわたしも愛し、わたしを探し求める人はわたしを見いだす」と言われている。知恵を愛する者を、知恵も愛してくれるという。そして知恵を探し求めるならば見いだすことができるというのだ。この知恵は自分の力で造り出すものではなく、見つけだすものだということだ。自分の頭の中でひねりだすものではなく探し求めるものであるというのだ。だから自分には知恵がない、こんな頭の悪い者に知恵なんかあるはずない、知恵なんか出てくるはずはないと諦める必要はないということだ。探し出せばいい、見つければいいのだ。しかも知恵は私たちを愛する思いを持っている、私たちのそばにいて私たちに見つけて欲しいと思っているらしいのだ。この知恵はきっと私たちのすぐそばにもうすでにあるのだろう。探せばすぐ見つかるところにあるのだろうと思う。
創造
知恵はまた、創造の昔から存在したという。神を天地を創造したその時からそこにいたという。この知恵は天地を創造するよりも先に創造されたということらしい。とすると、この箴言で語る知恵は、ただ単に人間が造り出した教訓、ただ人間の経験から出てきた処世術ではなく、神に造られた知恵、神から出てきた知恵、神との関係における知恵ということ。つまりこの箴言で語る知恵というのは、神を神として生きるという上での知恵ということのようだ。
実り
知恵のもとには、富と名誉があり、すぐれた財産と慈善もあるという。ということは金儲けをしたいと思ったらこの知恵があればいいということなのだろうか。
お金をもうけるためにどうしたらいいかということを私たちも考える。商売するとしたら、なるべくお金をかけないで商品を作って、なるべく高く売ればそれだけ儲かるような気になる。でも昔ケーキ屋さんに聞いた話によると、商売をやっていく上で大事なことは、お客さんに喜んでもらうことなんだと言っていた。お客さんに喜んで貰えるものを作っていれば、商売もうまくいくなんてことを言っていた。お金のことばかり考えていては逆にお金が儲からなくなるらしい。
知恵のもとには富と名誉と財産と慈善があるという。そこにはただお金がいっぱいあるだけではなく慈善がある。自分がお金持ちになれば裕福になればそれで満足ということではなく、そこから他の人のために与えていくことが起こってくるということのようだ。この知恵は自分ひとりだけのことを考える、自分だけがよくなることを考えることではなく、自分の周りの者のことも一緒に考えていく、一緒に生きていく、そのための知恵であるということなのだろう。
また知恵の与える実りは、どのような金、純金にもまさり、知恵のもたらす収穫は精選された銀にもまさるという。知恵のもとには富がある、けれども知恵の与える実りは富や財産にもまさるものであるという。
お金の心配のない生活が出来たらどんなにいいだろうかなんて思う。でもお金さえあればそれで充実した生活ができるかというとそうでもないように思う。宝くじかなにかで一生暮らせていける以上のお金が手に入ったらどんなになるだろうかなんて想像するときがある。そしたら仕事をしなくてもよくなるし、いろんなものが買えるし、いつもいいものを食べることができるなんて思う。そんな風に自分の欲しいものが全部手に入ったとしたら嬉しいのだろうか。それは楽しいことなんだろうかと思う。どうも楽しみは欲しいものを手に入れることとは別のことのように思う。楽しみは自分一人では得られないような気がする。大きな家で、何でも欲しいものをそこにおいても、自分一人だけでそこにいたとしたらどんなだろうかと思う。美味しい食事も、ひとりだけで食べてはそんなに美味しいと思えないような気がする。
知恵は慈善の道を歩き、正義の道を進むという。知恵のもとには慈善があるという。自分の物を与えていくこと、それは私たちが生きる上でとても大事な知恵なのだ。
喜び
また知恵は、神に造られた人々と共に楽を奏し、人の子らと共に楽しむものであるという。楽を奏するとは、遊ぶとか笑うという意味もあるそうだ。
この知恵は、私たちを戒めるもの、たとえば、これこれこういうことをしてはいけませんとか、これをしなければいけません、というような、ただ私たちを縛り付ける掟ではないということだ。
隣人を愛しなさい、とイエスも言われている。しかしこれは隣人を愛さない者を罰するため、出来ない者を裁くための戒めではないだろう。そうではなく、隣人を愛するということによって、私たちが生きることを充実させる、生きることを喜ぶ、私たちが豊かに生きる、そうするための戒め、それが隣人を愛しなさいということなんだと思う。
箴言のこの知恵も、こうしなければいけないとかいうことではなく、あるいはまた、こうすれば金持ちになれるとか、うまく立ち回れるとかいうための知恵ではなく、私たちが喜び笑いながら生きるための知恵ということだ。楽しく生きるための知恵なのだ。
自分の内側ばかりを見つめ、自分の財産のことばかりを考え、損得勘定で動くことが多い、それが私たちの陥りやすい生き方でもある。けれどもそれは神の知恵と共に生きる生き方ではなく、神から離れた生き方であるということだろう。
命
イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」 マタイによる福音書4:4
神の言葉を聞くこと、それが知恵と共に生きる生き方ということだろう。それこそが私たちが生きるために欠かすことのできない大事なことなのだ。
神の言葉を聞かないと罰せられるとか叱られるからではない。神の言葉を聞くことで、神の知恵と共に生きることで、笑い楽しみ喜びの人生を歩むことができる、だから神の言葉を聞いて生きなさいというのだ。本来私たちは愛と歓喜と笑いの中で生きるようにと造られているということだろう。
食べていくことに精一杯な私たちである。いつもそのための雑念に捕らわれている。年を取っていくことは、いろんなことができなくなるという大変なことでもある。けれども逆に人生とは何なのか、生きるということはどういうことなのか、ということがだんだんと見えてくるということでもあるのではないかと思う。山を登っていくと、その分疲れていく、けれどもそれだけいろんなものが見えてくるように、年を取ると言うことは人生が少しずつ見えてくることでもあると思う。
人生とは何か、生きるとは何か、神を神として生きるということはどういうことなのか、そのことを次の世代に語っていくことは先に生まれた者の務めでもあると思う。そしてそれがまた一緒に生きる、慈善の道を歩むことでもあり、また喜びと楽しみの人生を歩むことでもあるのだと思う。