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礼拝メッセージより
説教題:「主を畏れること」 2003年5月4日
聖書:箴言 1章1-19節
教訓
長女が生まれた頃だったか、赤ん坊をうつぶせに寝かせた方がいいという話しがあった。その方が頭がよくなるだったか、顔が面長になっていいだったか。でもそんな話しも今はあまり聞かない。理由ははっきりしないけれども、こうした方がいいよ、なんていううわさだけが広まって残っていくこともある。
アメリカでは、子どもはなるべく早く親から離した方が、早く自立していいんだというある学者の説が広まったそうだ。夜寝るときも早くに親から離してひとりだけで寝かせるみたい。そしてそんな習慣がいまでもあるみたいだ。ところがそんな風に育った世代の犯罪率がかなり上昇したそうで、子どもは早く親から離した方がいいといっていた学者も、それは間違いであったと認めているらしい。ところが、子どもを早く離した方がいいという習慣は社会のしっかり残っているみたい。それがいいといううわさは広まったけれども、それが悪いといううわさの方はあまり広まっていないみたい。
よくよく考えると、人類の長い歴史の中で培われてきた子育ての方法を、そんなに急に簡単に変えることの方に無理があるような気もする。けれども、こっちの方がいい、と言われるとついついそっちに乗っかってしまうというのも人の常ではある。
では本当に正しいのはどっちなのか、誰の意見を聞けばいいのか、その基準となるものは何なのか、よく考えると難しい。けれども長い間かけて培われてきた知恵ならば、いろんな苦労を通して、失敗を通して、いろんな経験を通してえてきた知恵ならば、洗練されて吟味されて、みんなが納得して伝えられてきたものであれば、それは単なるありがたい教えではなく、きっと役に立つものとなるであろう。
そしてこの箴言は長い間に伝えられてきた、そんな大事な教訓なのだろう。ただ誰かが言った説がうわさとして広まった、流行したというようなものではなくて、悩み、苦しみながら生きていく上で、これは大事なことなのだと後生に伝えてきたものだと思う。
箴言
教訓。生きる上での知恵。それは命を得るための知恵。長年受け継がれてきた知恵。
誰のため
この箴言は、未熟なものに熟慮を教え、若者に知識と慎重さを与えるためである。と同時に、賢人になお説得力を加え、聡明な人の指導力を増すものである。つまりこの箴言はあらゆる人のための知恵であるということ。
神の知恵
そしてこの知恵を得るためには主を畏れることが必要である。神を畏れることとはそれはつまり悪から離れること、また神の創造世界の一員として生きること。そして主を畏れることなしに人間の知恵は愚かとなる。
箴言はただ単なる処世術ではない、単なる代々の言い伝えではない、神を畏れるという神との関係の中でどう生きるかという知恵ということだ。
神に根ざした知恵をえること、それこそが私たちにとって大事なことなのだ。神に根拠のある知恵に従って生きるようにということだろう。
私たちの世の中にはいろんな根拠のはっきりしない知恵がいっぱいある。たとえば、子どもが生まれたときに名前を付けるのに、字の画数がどうであるかということを考慮しないといけないと言われる。実際それがとても大事だと思っている人はそうすればいいとは思うけれども、なんだかよくわからないけれどもまわりの者がいろいろ言うから気になってしまうということの方が多いような気がする。どれほど根拠があるのかはよく知らないが、みんなが画数を気にするようになった理由は、昭和の初め頃に名前の画数をどうすべきという本が大流行してそれ以来のことなんだと聞いたことがある。字の画数の計算の仕方はよく知っていても、画数がいいとか悪いとかいう話しは聞いても、どうして画数と人生が関係するのかという理由は聞いたことがない。
本当にそれが大事なことであるならばそれを気にしないといけないのだろうが、なんだかよくわからないけど気にしないといけないような気になっているもの、そんな知恵がいっぱいあるような気がする。そんな中で私たちは一体なにを大事にしないといけないのか、どんな知恵を大事にしないといけないのか。
私たちにとってその大事な知恵とは、神に根ざした、神との関係のなかで生きる上での知恵、神に創造された者としての知恵、それこそが大事な知恵であるということを箴言は語っている。
父母
ところがその神を畏れる知恵の最初に語られていることは、父の諭しに聞き従え、母の教えをおろそかにするな、ということだ。この知恵は基本的には家庭で行うものだということらしい。
悪
またすぐ後には、悪から離れるようにということを言われている。ならず者の誘惑に染まることがないようにということだ。ならず者は罪もない者をだれからかまわず隠れて待ち、金品を奪い、それで家をいっぱいにするという。
モーセの十戒には、隣人の家をむさぼるな、と言われているがそれに完全に反することをしようと誘惑してくる。人から奪ってでもとにかく自分が金持ちになりたい、金持ちでいたいという誘惑がある。そんな誘惑に誰もがおびやかされる。けれどもそれは結局は自分を陥れる罠であり、自分を傷つけるだけなのだという。人のものを奪うことは結局は自分の命を失うことなのだという。
だから悪から遠ざかるように、そしてそれが神の知恵であり、主を畏れるということでもある。この知恵は金儲けのためとか、うまく世渡りをするためというようなものではない。けれども神に造られたものとして生きていく上で、大事な知恵である。正義と裁きと公平に目覚めること、それが実は命に至る道であるということのようだ。