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礼拝メッセージより
説教題:「証人となる」 2003年4月27日
聖書:ルカによる福音書 24章36-49節
エマオ
エマオへ向かう途中で復活のイエスと出会った弟子たちは急いでエルサレムへと戻った。そしてイエスと出会ったこと、聖書を解き明かしてくれたこと、食事のときにイエスと分かったこと、そして聖書を説明してくれたときに心が燃えていたこと、そんなことを他の弟子たちにも伝えた。
彼らはどんな気持ちでいたのだろうか。思いもかけない出来事が起こったことにわくわくし、興奮して喋っていたのではないかと思う。
幽霊?
けれども十字架につけられて死んだそのイエスが復活するなんてのはやはりなかなか信じられないことだった。お化けになって出てきたんじゃないかと思うのが関の山。人が死んだ後その霊魂がどこかをさまようというような考えが昔からあったそうで、この話を聞いた多くの弟子たちもそんな考えを持っていたのかもしれない。だから話しを聞いている最終にイエス自身が現れたときも、亡霊を見ているのだと思ったのだろう。
復活のイエス。果たしてどんな姿なのか。幽霊なのか。弟子たちも亡霊を見ていると思って恐れた。けれどもエルサレムに現れたイエスは自分の手足を見るようにと言い、魚まで食べたという。
復活ってどういうことなのか、どんな身体なのか、十字架につけられたそのままの姿なのか、そのままの肉体なのか、よくわからない。そのまま天に上がるなんてどういうことなんだろうかと思う。
けれども少なくとも、復活のイエスは十字架のイエスであり、十字架で苦しまれたイエスなのだ。霊魂だけがさまよって弟子たちに現れたというようなことではなく、生前のイエスそのものが現れたということのようだ。
聖書
そして復活のイエスは、エマオで弟子たちにそうしたように、エルサレムでも聖書の話しをした。メシアが苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する、ということは聖書に書かれているように、かねてからの神の計画なのだということを説明した。
証人
そして弟子たちは十字架と復活の証人となるという。弟子たちがどういうことで選ばれたかはよく分からない。十字架を前にしてみんな師匠を見捨ててしまう、そんな弟子たちだった。緊急事態が起こったときには、自分の身の安全を最優先させた、そんな弟子たちだった。けれどもそんな弟子たちがイエスの承認となる、十字架と復活の証人となる、というのだ。
証拠
でも本当に復活なんてあるのか、本当にイエスが復活したのか、と思う。そんなことありうるのかと。その証拠を知りたいと思う。けれどもそんな証拠はなかなかない。神さまはどこにいるのか、いるなら見せて見ろと言われても見せようもないのと似ている。聖書に書いているから本当なんだと言いたくなるけれども、それも聖書が正しいと思っている人にしか通用しない。
ただ一つ証拠と言えるようなこと、それはこの復活のイエスに出会ったという弟子たちの変わり様なのではないかと思う。
イエスが捕まってしまい、処刑されそうになったとき、イエスの弟子たちはみんな逃げてしまった。一番弟子といってもいいようなペトロは、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております、と言いながら、イエスが捕まってしまってから、3度もそんな人のことは知らない、と言ったという。
そんな弟子たちがある時から、突然大胆にイエスを伝える者となっていった。イエスの十字架を目の当たりにしてそこから逃げ出していた、臆病者のような弟子たちが、堂々とイエスを伝える者となっていった。そんな風に変わっていった理由が、復活のイエスとの出会いであったのだと福音書は告げる。
また新約聖書の多くの手紙を書いたパウロは、キリストが救い主である、主である、神であると言う者に対し、そんな者は神を冒涜するけしからん奴らだとして、捕まえてきて処刑するという熱狂的なユダヤ教徒だった。ところがパウロはキリスト教徒を捕まえに行く途中に復活のイエスと出会ったという。そのことが使徒言行録には9章、22章、26章とご丁寧に3回も詳しく書かれている。
パウロはキリスト教徒を処刑し殺す側から、今度はキリストを伝え命を狙われる側に変わってしまった。そのきっかけが復活のイエスとの出会いであったというのだ。その出会いは、他の者には声も聞こえず姿も見えなかったというこれもなんだか不思議な出会いではある。しかしとにかくこのイエスとの出会いによって、復活のイエスとの出会いによってパウロは生き方がまるで変わってしまったのだ。
こんな風に臆病で逃げていた弟子たちや、キリストを迫害していた弟子が、今度は命を張ってキリストを伝える者と変えられていった、それこそが、弟子たちの変わり様こそが、イエスの復活の一番の証明なのだと思う。
そしてまたそれは、復活のイエスが弟子たちに語った、あなたがたはこれらのことの証人となる、というその言葉の通りになったということでもある。
証人
復活のキリストと出会った弟子たちはイエスの証人となっていった。その弟子たちを通してキリストが伝えられてきた。周りの者たちは、今度は弟子たちを見て、弟子たちの有り様を見て、弟子たちの語ることが真実であることを、イエスが復活したことを知っていったのだ。その生き様を通してイエスを伝える、それこそがイエスの証人となるということだろう。
聖霊
しかしただ弟子たちが自分の力で証人として立っていられたわけではない。自分の力だけで伝道していったわけではない。父が約束されたものをあなたがたに送る、とイエスが語るものによって、つまり聖霊によって、聖霊に覆われて弟子たちは証人となっていった。
聖霊とはなんなのかというとまたわかりにくい。聖霊とは何かと聞くと、三位一体のうちのひとつ、なんてややこしい話しを持ち出されて余計に分からなくなる、なんてこともある。確かにわかりにくい。けれども聖書を見ていくと、聖霊とは神の霊、キリストの霊ということでもあるだろうが、ルカは神の力というような言い方をしているようだ。私たちに賜物を与え、伝道する力を与え、証人となる力を与えるもの、聖霊とはそんな神の力、イエスの力なのだと思う。
その聖霊によって神の力によって弟子たちはイエスの証人となっていった。
証人
イエスは復活した、復活させられた、そのニュースは私たちの元へも届いている。神の力が弟子たちを支えたように、私たちも支えてくれているというニュースも届いている。目で見たり手で触ったりするような仕方で私たちはイエスに出会うことはないかもしれない。けれども御言葉を通して私たちは心の中でイエスと出会う。そしてイエスは私たちに対しても証人となると言われている。そのための聖霊を、神の力を送ると言われている。私たちは私たちの有り様を通して、生き様を通して、イエスの証人となっていくのだ。
私たちは聖霊を受けている、神の力を受けている。そして証人となると言われている。
私たちはそのイエスの証人となるためにもここに呼び集められているのだ。弟子たちがそうであったように、私たちも聖霊によって力づけられてイエスの十字架と復活の証人となっていこう。