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礼拝メッセージより
説教題:「十字架につけろ」 2003年4月6日
聖書:ルカによる福音書 23章13-25節
戦争
イラクでの戦争が続いている。北朝鮮でも何かが起こりそうな雲行きである。ずっと昔からいろんな所で戦いが起こっている。いろんな国が戦争をしてきた。
戦争ってのは国中が向こうとこっちに別れてやりあうものかと思っていた。ところが今では敵の国からテレビで中継したりしている。自分の国の軍隊が攻めている所に行って取材しているなんてのを見ると何だか不思議な気がする。
国と国が戦争をしているみたいなものではあるけれども、本当は権力を持った者同士、権力者同士のけんかでしかないように見える。戦争をしている国同士の庶民は仲のいい人だっていっぱいいるだろう。結婚している人たちだっているだろう。個人的には仲良しで、いろんなつきあいがあるのに、国なんていうのが出てくると戦争になってしまうというのはどうしてなんだろうか。
結局は権力者が自分の権力を守るため、自分の地位と豊かな暮らしを守るため、今の暮らしを失わないようにするために戦争しているような気がする。自分の国の為と言いつつ、自分の国の人たちが少々犠牲になっても仕方ないと誰もがそう言っている。自分が死ぬのは困るけれども、国民が少々死ぬのは構わないということのように聞こえる。全員いなくなると困るけれども、少しくらい死ぬのは構わない、今の体制が続くことが一番大事なのだと思っているように見える。
罪状
23:2 そして、イエスをこう訴え始めた。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」
ユダヤ教の最高法院での裁判の後、彼らはイエスをローマの総督であるピラトの下へ連れて行く。ローマ帝国の支配下にあったユダヤは自分たちで勝手に死刑にすることはできなかったそうだ。
ピラトはイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問した。しかしイエスは、「それはあなたが言っていることです」と答えた。ピラトはその答えを聞いてイエスに罪を見いだせないと答えた。
イエスは祭司長たちから似たような質問をされたときに、同じような答え方をしている。
22:70 そこで皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」 22:71 人々は、「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言った。
ところが祭司長たちはこの答えでイエスを有罪であると主張している。罪人だと思い込んだら、何が何でも罪人に仕立て上げるという感じである。時々警察が間違って逮捕した人をなんとかして犯人にしようとして、無理矢理にでも嘘でも自供させようとするという話しを聞くがそれと似たようなところがあるようだ。彼らはピラトの無罪の主張に納得せず、イエスがガリラヤ出身であることから、ピラトはガリラヤの領主であるヘロデのもとへイエスを送った。
ヘロデもイエスを尋問したがイエスは何も答えず、ただ侮辱して結局またピラトのもとへ送り返した。
そこからの話しが今日の聖書の箇所である。
脅迫
なぜピラトは群衆の声に押されてバラバを赦し、イエスを十字架につけてしまうことになったのか。ルカによる福音書では、人々が十字架につけるように大声で要求し続けたためとなっているが、ヨハネによる福音書では、
19:12 そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」
19:13 ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。 19:14 それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、 19:15 彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。 19:16 そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。
となっている。反逆者であるイエスを赦してしまったということを皇帝に密告されてもいいのか、とユダヤ人たちに脅しをかけられたということらしいのだ。
自分の地位が危うくなりそうになってしまったためにピラトは自分の信念を曲げてしまったということのようだ。イエスを赦すことで自分も反逆者側に立たされてしまうのではないか、そのことで今の地位も、今の生活も、今の豊かな暮らしも全部なくしてしまいかねない、そんな恐れがピラトにはあったということだろう。
今のままでいい、今のままがいい、という思いが強くあったがために、ピラトは無罪だと判断したイエスを助けることができず十字架につけてしまった。
そして祭司長や律法学者たちも、イエスが脅威であったのは自分たちの守ってきたユダヤ教そのものを覆されそうになったから、自分たちの地位や権力が危うくなるという危険性を感じたから、だからなんとかしてその危険要因を排除しようとしたということだろう。
沈黙
イエスは黙っている。自分に対するひどい仕打ちに対してもただ黙って従っている。自分の命に関わることであるのに。イエスはそうやって世の中の不条理、人のエゴ、人々の妬み、あらゆるものを自分が全部背負っていったということなのだろうか。
悔い改め
変化を望まない気持ちが私たちにもある。本当はこうすべきだ、こうしたほうがいい、と思っていても、そのために自分の身に大変なことが起こって来そうになると何も出来なくなったり、何も言えなくなったりする。自分の今の居場所が居心地がいいために、自分のまわりに苦しんでいるいる人がいたり、のけ者にされている人がいても見ない振りをしたりする。あるいは自分がその人を苦しめていたり、自分が疎外していたりしても、ただ自分のことばかりを優先させるような面が私たちにもある。
ルカは結局はユダヤ人たちの嫉妬がイエスを十字架につけた原因であるという。けれどもルカはそうやってただユダヤ人たちを責めている訳ではない。十字架の責任をユダヤ人に負わせて高見の見物をしているわけではない。
使徒 3:17 ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。 3:18 しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。 3:19 だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。 3:20 こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。
イエスはただ黙って人々のなすがままに任せている。人間の自分勝手な、そしてただ自分を守ろうとする思いからでる行動に対しても黙っている。イエスはそうしてそんな人たちの中にずっと居続けている。
群衆の中には、最初はイエスこそユダヤ人の王と思いついてきて、そしてこの時には十字架につけろと言っている者もいたであろう。しかしそんな人の中にイエスはいる。自分を守るために人を苦しめ疎外している、そんな私たちの中にイエスは今もいるのだろう。
私はいつもあなたと共にいる、私があなたを守っている、私があなたを支えている、だからあなたは隣人を愛しなさい、隣人を大事にし、そんな隣人との関係を大切にしなさい、そう言われているのではないか。イエスが私たちを愛し支えてくれている、そして今度は私たちが勇気を持って隣人を愛し支えていきなさい、と言われているのではないか。