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礼拝メッセージより
説教題:「真ん中に」 2003年4月13日
聖書:ルカによる福音書 23章26-43節
まわり
イエスの周りにはいろんな人がいた。そして十字架を目の前にしたとき、十字架に付けられた時にもやはりいろんな人がいた。
災難
ここに来てイエスに関わりを持たされることになった人、それがシモンだ。イエスは前夜からの徹夜の取り調べなどで相当に疲れていたのだろう。十字架を背負わされて処刑場に行くまでの足下もおぼつかない。兵士達はたまたまそこにいたシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせてイエスの後ろから運ばせた。シモンにとっては全くの災難というようなものだったに違いない。しかしシモンはそんなまるで災難としか思えないような仕方でイエスとの関わりを持った。シモンがその後どうなったかはわからないが、マルコによる福音書にシモンの子どもの名前が出てくることからすると、シモンの子ども達は後々教会でよい働きをしたのかもしれない。
嘆き
イエスの周りにはイエスの状況を嘆く婦人達がいた。大きな群を成していたという。イエスはその婦人達に向かって、「わたしのために泣くな、むしろ、自分と自分の子供達のために泣け」と言う。一体これはどういうことなのだろうか。
他人を
イエスの周りにはイエスをあざ笑う者がいた。議員達は「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」と言い、兵士達は「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救って見ろ」と言う。そして十字架に付けられている犯罪人のひとりまでも、「おまえはメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言った。何とも嫌みな言い方に聞こえる。しかし他人を救った、とはまさにその通りだった。イエスは他人を救った。しかし自分は救わない。どうして自分を救わないのだ。自分も救えないのか、どうしてそれでメシアと言えるのか、自分も救えない者が救い主であるわけがないではないか、そんな思いを持つのも理解できる。私たちも同じように思うのではないか。
神の子なら
メシアなら、キリストなら、ユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。キリストなら圧倒的な力で十字架から舞い降りて来るはずだ、と思う。キリストは誰にも支配されない、力があり、悪を蹴散らし、自分に反対する者をやっつけるのではないか、と思っていた。私たちもそう思うのではないか。最後の最後には、もうそこまでだ、おまえ達の勝手にはさせない、俺様をどなたと心得る、と悪者を成敗する、そう思っているのではないか。あたかも水戸黄門のように。8時44分には印籠を見せるはずだと思っているのではないか。
でもイエスは黙ったまま、苦しんでいるまま、誰からも見捨てられ、十字架の死に追いやられている。されるがまま、何の抵抗もしない。
とりなし
イエスは十字架上で「父よ、彼らをお赦しください。自分で何をしているのか知らないのです。」ととりなしの祈りをしたと書かれている。しかしこの言葉はかっこの中にあるように重要な写本にはない。
しかしそう言ったか言わなかったということよりも、十字架に至る行為そのものがとりなしであり、とりなしの祈りそのものであったと言えるだろう。イエスはすべての人のための十字架で死なれたのだ。
しかしなぜこれほどまでに苦しまねばならなかったのかと思う。神なのにどうしてこんな惨めな姿にならねばならないのか、それも最後の最後に逆転するわけでもなく、どうして死にまでそのままなのかと思う。
全ての罪人のゆるしのためには、罪深い者を赦すということは容易なことではない、それほどまでに私たちの罪は根が深いということなのだろう。
神はどこに
人生は苦しいことのみ多いのか。「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」だったか、そんなことばもあった。どうしてこんなことになるのか、なんでわたしだけこんなことになるのか、どうしてあの人はあんなことになるのか。自分自身について、また誰かにことについてそんなことを考える。
ところがある本の中にこんな言葉があった。
「どうして神はこのことを許すのかという問いは、傍観者の問いである。それは当事者の問いではない。私は、1943年7月、故郷の街ハンブルクに投下され、紅蓮の焔の中で8万人の人間を全滅させた、爆弾の雨の中にいたことを思い出す。私は奇蹟によって生き残ったが、なぜ仲間のように死ななかったのかが、やはり今日に至るまでわからない。あの地獄の中での私の問いは、どうして神はこのようなことを許すのかではなく、わが神あなたはどこにいますのか、神よどこにいますのかであった。神は私たちから遠く、不在で天にいますのか。あるいは苦しむ者たちのもとで苦しむお方なのか。」
確かに苦しくて苦しくて仕方ないときに、どうして神は私をこんな目にあわせるのか、なんてことを考える余裕はない、という気はする。
神は苦しんでいる私たちを遠くから見ているのではない。高い所から人間の苦しむ姿を見ているのではない。人が苦しんでいる、まさにその場所に神はおられるのだろう。そこまでイエスはやってきたということだろう。イエス自身が苦しみの真ん中にいたのだ。それも自分の蒔いた種ではなく、他の人のための苦しみだったのだ。
こんな状況のいったいどこに神がいるのか、と思う。しかしそのようなところに神はいるのだ。神から見捨てられたと人が感じるようなところにさえもおられるのだ。
ゆるし
このイエスの十字架によって私たちは赦されているのだ。神との関係を持つことができるようにされているのだ。イエスの十字架により、私たちは罪人でありながら、罪がない者とされて、神との正しい関係を持つことができるようにされている。
どうしてそのことで、イエスの十字架によって私たちが赦されるのか、なんてこともわかるようなわからないような、しかしとにかく私たちにはお前の罪を赦す、といってくださる方がいること、そしてイエスがそう言うことができる方であること、それは確かなことだ。
救い
イエスのまわりにひとりだけイエスを救い主だと思っている者がいる。それがもうひとりの犯罪人だ。イエスが十字架につけられ死のうとしている。なんとも情けない敗北のような有り様である。しかしその状況の中でただひとりだけなおもそのイエスを救い主と認めている。
彼は、自分のしでかしたことの報いを受けていると言う。そして「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言う。
イエスは、これに対して「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。あなたは救われた救われているというのだ。
だれもが救いは十字架から降りることだと思っていた。強い力を出して十字架から降りてくることだと思っていた。しかしひとりだけそう思っていない者がいた。十字架から降りなくても、十字架の上に救いがあることを見つけている者がいた。それが犯罪人のひとりだった。
救いとは、イエスが共にいることなのだろう。イエスと共にいることこそが救いなのだろう。私たちは苦しい状況を奇跡的に解決してくれることを望む。しかしイエスはそうしなかった。そうしようと思えば出来たのであろう。しかしイエスはそうしなかった。それはどこまでも罪人である私たちと共にいるためだったのではないか。最後に水戸黄門になってしまっては、またどこかに旅立ってしまう、突然別の次元の者になってしまう、罪人とは違う世界にいってしまうことになる。しかしイエスはそうしない。どこまでも罪人と共にいるのだ。
罪人
そしてそこに救いを発見しているのは犯罪人のひとりだけであった。彼は、自分の罪を認めている。彼は自分が十字架につけられることは当然であると言う。自分は当然罰せられるものなのだ、そんな罪人なんだということを知っている者だけが、そこに、十字架のイエスに救いを発見しているようだ。
真ん中に
イエスはそんないろんな人々の真ん中にいる。十字架につけられた二人の真ん中に、そして十字架を見守る民衆、議員、兵士たちの真ん中にいる。
イエスのことを救い主だと思っている者や思っていない者の真ん中にいるのだ。十字架上のイエスを見て、もうそこには救いはないと思っている者と思っていない者の真ん中にいるのだ。そしてイエスはその救いを発見した者のためにも発見していない者のためにも死んだのだ。