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礼拝メッセージより
説教題:「祈り」 2003年3月30日
聖書:ルカによる福音書 18章1-8節
やもめ
日々の暮らしが大変。法律的にも社会的にも保護されない無力な存在。お金もない。裁判の相手はきっとずっと金持ちで有力なものだったのだろう。やもめは裁判官に金銭や贈り物をする経済力を持たない。だからひたすら裁判官のもとへ通うしかすべはない。それだけが武器。そもそも法律的にも無力。夫が亡くなるとその財産は別の男が相続する、そんな社会だったそうだ。放っておけばなにもかも取られてしまう、そんな無力なやもめにとって、しつこく裁判官に願い出るしかすべはない、自分を守るためにはそれしかない、そんな状況だったらしい。
裁判官
あまり正しい裁判官ではない。「神を畏れず、人を見下す横柄な裁判官」。
最初はやめもに対し、彼女の願いを無視していた。だいたい法律なんてのはおおよそ金持ちのに有利になるように作られているようだ。だから何もしなければお金のある力のある側に有利な判決となる。その上何か不正なことまでして貧しい者から巻き上げようとすることもある。
やもめは自分を守るためにひたすら裁判官の所へとでかけていく。どこへいくにもついていったのか、毎日毎日裁判官の前に現れたのかしたのだろう。裁判官がいやになるほど、うるさくてかなわないほど出かけていったという。
あまりのうるささに裁判官はやもめのための裁判をすることにする。そうしないことには彼女が夢にまで出てきてうなされてしまうということなのかもしれない。
祈り
この話は、だからしつこく一所懸命に祈りなさい、という話しということになっている。
祈りというのは、神との人格的な対話である。対話というのは、相手の人格を信頼してこそ成り立つ。話をする場合、相手が聞いてくれるという信頼がない場合、話さない。相手がどれくらい真剣に聞いてくれるかということで、私達も相手にどれ位本心を話すか、ということになる。相手がどれ位自分のことを親身になって聞いてくれるか、ということで、半分くらいにしておこうかとか、すべて話そうか、ということになる。
だから祈りはかっこいいことだけを言うことではないだろう。勇ましいことだけを言うことでもないだろう。自分の苦しみや悲しみ痛みを話すことも祈りに含まれるんではないか。そしてそれらをも全部含めて神は聞いてくださるのだ、すべてを包んで聞いてくださるのだとイエスは言う。
だから祈れと勧めている。現状を見るととても祈れない、祈ったところでどうなるものかと思うような現実があるかもしれない。神はなにもしてくれないのではないか、聞いてもくれないのではないかという恐れもある。こんなつたない祈りでは効き目もないのではないか、こんな短い祈りではだめではないか、こんな不信仰な祈りでは駄目ではないか、そんないろいろな現実がある。しかしそんな現実の中で、その現実をあきらめないで、絶望しないで祈りなさい、神は必ず聞いてくださるのだからとイエスは言う。祈り続けなさいと勧める。
それをイエスは勧めている。
祈りへの誘い
常に祈れ、それは強圧的な命令ではなく、「悩みがあれば訴えるがよい。私は聞こう。願いがあれば求めるがよい。私は耳を傾けて聞いている。」という確かな主の約束であり励ましである。
お前は祈っていないからだめだ、というように責めているわけではない。
しかし実際祈ってもどうにかなるのか、本当に神は聞いているのか、聞いているならどうして何とかしてくれないのか、なんてことを思う。まるで自分の願い通りにことが運ばないことにいらいらする。どうして神は何もしてくれないの、と思う。
街で、薄い着物一枚で、満足に食事もできず、寒さに震えているひとりの小さな女の子を見ました。わたしは怒り、<神>に言いました。「あなたはなぜこんなことをお許しになるのですか?なぜ何かをして下さらないのです?」
しばらくの間、<神>は何も言われませんでした。その夜、<神>は突然お答えになったのです。「わたしは確かに何かをした、わたしはおまえをつくった。」(『小鳥の歌』アントニー・デ・メロ著、女子パウロ会)
祈りと行動
祈りは行動を伴ってくる。祈りから行動がおきてくる。やもめが裁判官のところに何度も出かけたのも彼女の切なる願い、祈りがあったからだ。
祈りとは、神にこれこれをこうしてください、と願うことでもあり、また自分がそれに対して、誰かに対して何ができるかを問うことでもあるのではないか。
祈りから行動する力が与えられるのではないか。祈りから問題に対処する力が与えられるのではないか。祈りから現実を受け止め現実に向かい合う力が与えられるのではないか。
しつこさ
無力なやもめが判決をひっくりかえした、それは彼女のしつこさがあったからだ。彼女にとってはそれしか武器はなかった。
現代の裁判においても力のある者に有利な判決が出ることが多い。法律に照らしあわせてということだろうが、その法律も結局は力のある者、権力者のため、となっていることが多い。そんな中で無力な民衆はどうすればいいのか。このやもめのようにしつこく食い下がるしかないのかもしれない。おかしいと訴え続けるしかないのかもしれない。
神はそのしつこく訴える無力な者と共におられるのではないか。そしてそんなしつこさが歴史をも変えていくのだろう。そんなしつこさの中に神はおられる、そのしつこさこそが神の働きなのだ、と思う。
いかにも無力な働き、何の意味もないような働きに思える、そんな働きが世界をも変える、そしてその働きを支えるのが祈りなのだ。
この世の虐げられている、苦しめられている人たちのために私たちもその働きを担っていきたいと思う。しつこさを持ちたいと思う。そこにこそ神はおられるのではないか。小さい人のことを思い、小さいもののために動き、彼らのために働く、そこにこそ神はおられるのではないか。そしてそこに神がおられることを知る、それこそが祈りなのかもしれない。
ここは絶えず祈るようにということのたとえてして語られていると言われる。けれども神は何度も何度もしつこく祈らないと聞いてくれないような方ではない。神がこんな不正な裁判官という訳ではない。なにより聖書は一貫して、神は祈る以前に私たちの苦しみも悲しみも全部分かってくれていて、私たちに必要なものも全部知っていると言われる。
だから実はイエスがこのたとえで言いたかったことは、なかなか聞いてくれない神でもいつかは聞いてくれるからそれまでしつこく祈れ、ということではなく、自分を守るためにしつこくしつこく行動するしかない、そんな無力な者の中に神の力が宿る、そのしつこさを神は全面的に肯定しているということなのではないか、その行動を神が支えているということなのではないかと思う。そして祈ることで私たちはそのしつこい働きを続けていける、祈ることで神の支えを知ることができるのだろう。
私たちの小さな無力な教会の働きも神の支えのうちにあるのだろう。パウロは福音のためにはどんなことでもする、と語っている。かっこいい、スマートなことをやっていきたいと私たちは願う。教会の働きも伝道もスマートに、無駄なくそつなくなんて。けれども本当はなかなかそうもいかない。失敗し挫折し悩みながらの連続だ。それでもしつこくやっていく。伝道もいろんなことをしながら失敗ばかりしながらそれでもしつこくやっていくこと、そこにこそ神の働きがある、そんな働きを神は支えてくれているのだろう。あなたのその一見無力な、無駄な働きを神は支えているのだ、その働きが世界をも変える神の働きのひとつなのだ、とイエスは言われているのではないか。