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礼拝メッセージより
説教題:「弱さ」 2003年3月23日
聖書:ルカによる福音書 22章54-62節
牢までも
緊迫の状況がいよいよ押し迫ってくる。ついに最悪のシナリオが実行されようとしている。十字架が目前に迫っている。しかしそのことを弟子達はまだ分かっていないようだ。
32節からのところでイエスはペトロに対して私のことを3度知らないと言うだろうと言ったと書かれている。ペトロもただならぬイエスの様子は分かっていたのだろう、彼は「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言ったという。非常に勇ましい発言である。きっとペトロはそのつもりだったのだろう。少々のことが起こってもイエスについていく覚悟はあったのだろう。牢の仲間でもついていくという覚悟はしていたのかもしれない。しかし覚悟していた以上のとんでもない事態が起こっていった。
しかしイエスはその前にペトロに対して、「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」と言っている。これからあなたの身に苦しいことが起こる、しかしあなたのために信仰がなくならないように祈ったとイエスは言うのだ。
それに対してペトロは、御一緒なら牢に入っても死んでもいい、と答えた。自分ならば大丈夫、祈ってもらうこともない、どこまでもついていくのだ、そんなことを祈ってもらわなくても、という思いがあったのだろうか。信仰がなくならないように祈ってもらうようなやわな人間ではない、という気持ちがあるように聞こえる。
熱血
イエスは、「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」と言う。さっきはシモンと実名で呼んでいたが、ここではペトロとニックネームで呼ぶ。ペトロとは岩というような意味らしい。岩のような堅い信念を持っていたからか、頑固だったからか、岩のようながっしりした体だったのだろうか。どうやら牢に入っても死んでもいい、というような熱血漢であったようだ。
しかしイエスは、その熱血漢であるペトロよ、あなたは今日、鶏が鳴くまでに三度わたしを知らないと言うだろう、と言うのだ。そんな大変な状況がもう目の前にまで迫ってきているという。自分の信念や力だけでは太刀打ちできないような苦しい大変な危機が迫ってきている、と言うのだ。信仰がなくなってしまいそうな事柄が迫っているというのだ。
これを聞いたペトロはどう思ったか。他の福音書では、ペトロは、そんなことは言いません、ときっぱりと否定している。一所懸命にイエスについてきたこの自分が、自分の師匠のことを知らないなんて言うわけがない、何が起ころうとそんなことあるわけないと思っていたのだろう。自信があった。しかしイエスが捕らえられてしまい、極悪人のような扱いを受けると、ペトロはイエスを知らないと言ってしまう。
苦難
苦しい状況になったときにどうなるか、それは私たちには分からない。どんなに自信があったとしてもどうなるか分からない。自分には信仰があるから大丈夫、と思っていても実際に苦しいことに直面するとどうなるか分からないだろう。
たとえば死を目前にしたときに私たちはどうなるのだろうか。死を前にしても冷静にその死を受け止めて死んでいく人の話を聞くとすごいと思う。讃美歌を歌いながらなくなる、なんて話を聞くとすごいと思う。天の国を見上げて死んでいく様を見るとそんなにできればいいな、と思う。信仰があるから、神を信じているから死は怖くない、というようなことをいう人もいる。それもすごいな、と思う。でも今元気だからそんなこと言えるんじゃないの、と勘繰ったりする。自分に死が迫ってきた時果たしてどうなるか。分からない。死が現実のものとなったときに自分がどうなってしまうかとても心配である。身体の具合が悪いときに、実は悪い病気になっていてそのまま死んでしまうかもしれない、なんて死を自分のこととして考えているとぞっとすることがある。死ぬときどうなるのか、死んだ後どうなるのか、はっきりとはしていない。死んでも神の手の中にあるのだということは分かっていても、やはりどこかへ旅行でもいくかのようにはできないだろうと思う。死だけではなく生きていく中で私たちにはいろんな苦難や悲しみがある。信仰があるから何があっても大丈夫、なのだろうか。何が起こっても平気なのだろうか。絶対に信仰を失うことはない、どこまでも信じる、死をも恐れない、と本当に言えるのだろうか。それほどの信仰を私は持っているのだ、と言えるのだろうか。それほどの信仰を持っていないと私たちは失格なのだろうか。
空っぽ
ペトロは、私はどこまでもイエスについていくと言っていた。きっとそんな信念を持って、確信を持ってそう言ったのだろう。そう言えるほどのものをペトロは持っていたのだと思う。しかしそのペトロの持っていた信念を吹き飛ばす事態が起こってしまった。きっと少々のことならペトロはその信念をずっと持ち続けただろうと思う。しかしその信念を持ち続けることが出来なくなるようなことが起こってしまったのだ。自分の持ち物では太刀打ちできない出来事が起こってしまったのだ。
そこでペトロは相当に打ちのめされてしまっただろうと思う。自信があっただけに余計に失望は大きかったに違いないと思う。ペトロは自分の持っているもので大丈夫だと思っていた。自分の持っている信念、自分の持っている信仰、それによって何にでも太刀打ちできると思っていた。しかしその自分の持ち物がぼろぼろに崩され、ペトロにはもう何も残っていなかったに違いない。空っぽになってしまっていたに違いない。ペトロの偉いところは自分がイエスを知らないと言ってしまってから外で激しく泣いたということだろうと思う。自分が情けなくなったのだろうか。そんな自分をしっかりと見つめて彼は泣いたのだろう。そんな時僕だったら自分自身に対して適当な言い訳をしてしまうそうだ。こんな状況なんだから仕方ない、きっと本当のことは誰にもばれない、イエスを知らないと言ったことも誰にも知られはしない、そんないろんな弁解を思いつきそうな気がする。けれどもペトロはそんなことはしないで自分の弱さをしっかりと見つめて、そして受け止めて激しく泣いたのだろう。
しかしそこでペトロはイエスの言葉を思い出したのではないかと思う。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」聞いたときにはきっと反発を感じていたであろう。そんなことある訳ないと思い、実際そう反論していた。そしてまともに聞くこともなかったその言葉を、ペトロはあとになってから、自分の自信と信仰を完全に崩されてしまって、空っぽになってから改めて聞き直したに違いないと思う。
空っぽになってしまう、というのはきっと相当辛いことだ。自分の中に頼るべきなにかを持っていることで私たちは安心する。そしてそんないろんな頼るべき何かを一所懸命に持とうと努力している。地位や名誉や力、能力や技術を持つことで安心する面がある。そして深い篤い信仰を持つことでこの世を乗り切ろうとする。信仰深い心を自分が持つことでいろんな問題、いろんな苦難を乗り切ろうとする。自分の持ち物によって、自分の力によって、自分一人でなんとかしよう、なんとかしなければ、という思いがある。
しかしイエスは、ペトロにこういった。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」イエスがペトロのために祈った、と言うのだ。ペトロはイエスの祈りによって支えられていたということだ。ペトロ自身が持っていた信念や信仰が崩れたときにも、イエスの祈りによって彼は支えられていた。何もかも崩れてしまった空っぽになったときにも彼は支えらえていた。イエスによって、イエスの祈りによってペトロは神との繋がりを持ち続ける事が出来た。
結局大事なのは、ペトロがどれほどのものを、どれほどの信念と信仰を持っていたかではなく、神との繋がりがあるかどうかだ。神との繋がり、それこそが大事なものだ。
立ち直り
ペトロはイエスの祈りによって支えられていたことを後々思い出したことだろう。そしてまたイエスの言葉を思い起こしたことだろう。「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
ペトロが立ち直ったとき、それはイエスを知らないと言ったあとのことだ。自分のだらしなさ、自分の無力さを思い知らされた後のことだ。そんな苦しい時を経験して後にペトロは今度は兄弟を力づける側になっていったのだろう。イエスによって支えられたことによって、今度は兄弟を支える側になっていったのだろう。そんな辛いことを経験したからこそ、自分の持ち物、自分の力ではどうにもならないということを経験したからこそ兄弟を力づけることができるようになっていったのかもしれない。
無力
私たちもペトロを同じようなことをよく体験するのではないか。自分にはこれができる、自分にはこんな能力がある、賜物がある、信仰があると思い、自分は大丈夫だ、今まで信仰を守り通してきた、そしてこれからもこの信仰を守り通すと思う時がある。しかしいつそんな自分の信念や自分の信仰が崩れてしまうかもしれない。そうするとどうして自分はこんなに駄目なのか、どうしてこんなにだらしないのか、と自分を嘆き責める。ほんの些細なことで、ちょっとした誰かのひとことで、それまでの元気が吹っ飛んでしまうことも多い。
しかしペトロの同じように、私たちもイエスにつながっているならば、イエスによって支えられているのだ。イエスの祈りによって支えられているのだ。そこで神との関係を持ち続けることが出来ているのだろう。神が私たちのことをじっと見つめてくれていることを知ることが出来る。その神との関係さえあれば私たちは立ち直ることができる。私たちが何かを持つことによってではなく、神との関係があることによってまた立ち上がる事が出来る。
イエスの弟子たちは誰もが時には傲慢になり、時にはくじけ、失敗し、挫折するような弟子達だった。イエスのことを知らないと言ってしまうような弟子達だった。イエスを見捨てて逃げてしまうような弟子達だった。しかしそんな弟子達のためにイエスは祈ったというのだ。
私たちも彼らと全く同じだ。失敗し挫折し傲慢になり不信仰になる私たちだ。私たちのこともイエスは祈ってくれているに違いない。そして、立ち直ったら、兄弟達を力づけてやりなさい、と言われているのではないか。
誰が一番偉いか、といつも自分と人とを比較して競争することの多い私たちだ。教会の中でも外でも競争することが多い。誰かを競争相手として見ることが多い。私はこんなにしているのにあの人は何もしない、とか、あいつの信仰は一体なんなのだ、とか思うことがあるのではないか。私は信仰をずっと守り通してきた、なのにこいつらは何なのだと思う。
しかしイエスは私たちが誰かを見つめるとき、誰かと自分を比べるとき、私たちの背後で「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われているのではないか。私たちは競争するためにここに集められているのではない。相手を非難し、自分の信仰の重さを自慢するためにここに来ているのでもないだろう。私たちは互いに力づけるため、愛し合うため、支え合うためにここに集まられている。そんな風に自分の弱さも相手の弱さも認め会い支え合う関係それこそが教会の中の関係なのだと思う。