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礼拝メッセージより
説教題:「隣人になる」 2003年2月23日
聖書:ルカによる福音書 10章25-37節
えいえんのいのち
律法の専門家がイエスを試みようとして質問をした。「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」受け継ぐ、とは相続するという意味の言葉だそうだ。
それに対してイエスは逆に律法の専門家に聞き返す。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」律法の専門家に律法には何と書いてあるか、なんて聞くんだからおもしろい。つまりあなたはそんなことは知っているではないか、知っているはずではないか、知っていてなぜ聞いてきたのか、といったところだろうか。
律法の専門家は旧約聖書の申命記6章5節のところを引用して答える。「6:5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」ここはユダヤ人たちが一日に2回唱える「シェマの祈り」の中にも入っているものだそうだ。そして続けてレビ記19章18節、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」敬虔なユダヤ人たちにとっては、神と隣人が愛されるところにおいて律法は満たされると考えられており、そのことを誰もが知っていた。
だからイエスも「正しい答えだ」と同意している。そしてイエスはそれだけでは終わらず、続けて「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」と語った。問題はそれを実行するかどうかだということだろう。ただ筆記試験で答えるだけだとしたらこの律法の専門家の答えは満点だろう。けれども実際には答えを知っているかどうかというよりも、それを実行しているかどうかということだろう。
もし律法の専門家がただ永遠の命のことを聞きたいために質問したのなら、この答えで安心して帰ったかもしれない。しかし彼は知りたいために聞いたのではなく、イエスを試すために聞いたわけで、ここで「あーそうですか」と引き下がるわけにはいかない。そこで「では、わたしの隣人とはだれですか」と切り返す。最初からこの質問をするつもりだったのかもしれない、なんていう気もする。
よいサマリアじん
ここでイエスが語ったのが「よきサマリアびと」なんて言われ方をしている話しである。
エルサレムからエリコへ降っていく途中に追いはぎにあい半殺しにされた人を、祭司やレビ人は知らん顔をして通ったが、サマリア人は助けた、という話しだ。
さいしとレビびと
エルサレムからエリコまでは約27kmで5,6時間かかるそうだ。この道は悪名高い道で、誰かが強盗に襲われることがしばしばあったらしい。
エリコは祭司の町だった。祭司はエルサレム神殿での礼拝の責任を果たした後、この道を下り帰宅する。レビ人も同じように神殿での務めを終えての帰り道ということだろうか。
祭司もレビ人もユダヤ教社会では尊敬され尊重される人たちだった。しかし彼らは半殺しの目にあっている者を遠巻きに見て通り過ぎてしまう。
なぜ彼らは傷ついている人に関わらなかったのか。理由は語られていない。それなりの理由を持って彼らは傷ついたものと関わりを持たないことにしたのだろう。半殺しにあった者に関わってはいけないという理由が二人ともあったのだろう。「隣人を自分のように愛しなさい」と教えるような立場の者が二人とも道の向こう側を通っていくからにはそれなりの言い訳があったのではないか、と思いたくなる。聖職者は死体には近づいてはいけない、だからいまにも死にかけているような人間にも近づくな、なんていうもっともらしい理由があったのではないか。理由ははっきりしないが祭司とレビ人はただそこを通り過ぎてしまった。
サマリアじん
そこへサマリア人が通りかかり、彼は半殺しの目に遭っているその人を助けて介抱し、宿屋までも連れて行った。それがイエスの語ったたとえであった。
サマリア人のことをユダヤ人は見下していた。かつては同じ民族であったが、イスラエルが北と南に別れた後に、サマリアのある北の国をアッシリアという国が占領し、アッシリアは東の方の民族を移住させてしまった。その結果、民は混血となり、宗教も東の宗教とイスラエル古来の信仰とが結びついてしまった。南の国のユダヤ人たちはそんなことからサマリア人を軽蔑し、サマリア人の信仰を異端として見ていたようだ。
そんなサマリア人が自分を見下していた側の人間を助けたというのだ。同じユダヤ民族の代表でもあるような祭司やレビ人が見捨てた人を軽蔑していたサマリア人が助けたと。
これを聞いていた律法の専門家もこの話しに対して反発もしていない、そんなことはない、祭司やレビ人は助けるはずだ、とも言っていないということは、実際にもこういうことがありそうな話しだったからではないか。
あいのいましめ
祭司やレビ人は律法のもとに生きていたはずだ。律法のすべてが神を愛し、隣人を愛するということに尽きるとすれば、隣人を愛さないことはなんでも律法に反し、神の意志に反することになる。
この祭司もレビ人も神を信じている、神を大事にしている、忠実に神に従おうと思っている人間だろう。神を愛していると思っていることだろう。ところが最も大事な掟の一方、隣人を愛するということがどこかでうやむやになっていたのではないか。
いろんな理由をつけて人を愛さないことが多いように思う。もっと時間があれば、もっとお金があれば、もっと元気であれば、もっと余裕があれば、そうしたら誰かのために何かをできるのに、そうなれば愛することもできるのにと思う。
この話しを聞くと、教会に来ている多くの人は、私には出来ない、私はこのサマリア人にはなれない、この人は偉いですねえ、ということを言う。結構簡単にそう言って、自分は相変わらず誰かの隣人になろうとしないで、誰かに助けてもらう側にずっといることがある。自分に出来るかどうか、ということを気にすることが多いように思う。このサマリア人のようにここまで出来るかと真剣に考えたらきっと誰でも出来ないという結論になってしまうだろう。けれどもイエスは、このサマリア人のようなことをしてきたかとか、この人のしたようなことが出来るかどうかと聞いているのではない。イエスが言うのは、このサマリア人が追いはぎに襲われた人の隣人になった、そのようにあなたも同じようにしなさい、と言われているのだ。出来るかどうかを聞いているのではなくて、同じようにしなさいと言われているのだ。
隣人になることはそれはとても面倒なことだ。面倒なことを背負い込むことだ。傷ついたものを介抱することも、苦しむ者と一緒にいることも、嘆いたり呻いたりしている者の声をじっと聞くことも、それはとても面倒な、しんどいことだ。けれどもそれが愛すると言うことだろう。愛すると言うことは面倒なことを自分がやっていくことだと思う。愛すると言うことは誰かのために、自分の能力や財産や時間を投げ出すことでもあると思うのだ。自分のお金も時間も能力も勿体ないから差し出さないとしたら愛するなんてことはできないだろう。
りんじんとなる
隣人となったのは誰か、とイエスは聞いた。隣人となるのだ。隣人とはただ横にいる人間ではないようだ。自分が関わっていくことで初めて隣人となることが出来るのだろう。
ということは隣人になるかどうかが問題のようだ。ここでいう隣人とはただ隣にいる人のことではないようだ。隣に誰がいようと、助けの必要な人がいようとこちらが何の関りも持たなければ隣人ではない、というのだ。つまり隣人になろうとする意志がなければ隣人にはならないということだ。
まず私たちは教会に来る人の隣人となりなさいと言われているのではないかと思う。そしてこの社会の中でいろんな人の隣人となりなさいと言われているのではないか。
礼拝が始まる15分前まで誰も来ないということが結構ある。私たちが自分の家にお客さんを迎えるとしたら何分前から待っているだろうか。自分の家に誰か来るときには結構前から準備するだろう。大事なお客さんだと余計準備するだろう。教会も同じだと思う。礼拝に来る人は誰もが大事なお客さんだと思う。私たちが介抱し世話をする相手のようなものだと思う。私たちはそんな人たちの隣人となりなさいと言われているのだろうと思う。そんな人のことは構っていられない、私は説教を聞くためにきた、それが私の務めだ、それを邪魔されたくはない、世話をするのは牧師や役員や他の人のする仕事だと思うとしたら、ここでいう祭司やレビ人のしていることと同じだと思う。
イエスは祭司やレビ人のようにならないで、隣人になりなさいと言われている。礼拝にぎりぎりに来ることもあるだろう、遅れていることも勿論あるだろう。少なくとも礼拝に来る人たちの隣人となっていこうとする気持ちだけは持ち続けてほしいと思う。
イエス
この愛を実践し、私たちの隣人となって下さったのがイエスである。イエスが隣人となってくださったから私たちも誰かの隣人となるように、と言われている。私たちはただ単に誰かの隣にいくのではなく、イエスの隣人として誰かの隣人となるのだろう。神の業として誰かの隣人となるのだ。そこで神の愛を伝える者として隣人となるのだ。
いのち
そしてそれは永遠の命を受け継ぐためで、つまり永遠の命を得るためである。永遠の命を得るためには神だけを見ているのでは十分ではないということのようだ。隣人になることは誰かのためになるから、というだけではなく、それは自分自身が永遠の命を受け継ぐためでもある、ということだろう。
私たちはそうやって隣人との関係を持つ事で生き生きと生きることが出来るのだろう。そんな関係を持たないではきっと生きていけないのだ。命はイエスが隣人となって下さり、そして自分が誰かの隣人となることで得られるのだ。だからイエスはそうしなさいと言われているのだろう。そしてそこが神の国なのだ。神の愛の行き来するところだ。イエスの愛が私たちに、そして隣人に行ったり来たりする所、そこが神の国だ。だから神の国は私たちが死んだ後に行くところというよりも、神の愛に生きるところだ。イエスも、神の国は近づいたとか、神の国はあなたがたのただ中にあるというようなことを言われている。神の愛に生きるところはもうすでに神の国なのだ。そして隣人となっていくということは神の国に生きることでもある。神を信じるのは、この世に失望してあの世に夢を託すことではなく、今生きているこの時を大事にすること、今この時に神の愛に生き、神の愛を伝えること、隣人となること、それが神を信じるということだ。
だから私たちが隣人となるのは、そうしないと誰かから、神さまから怒られるからではなく、そこで永遠の命を受け継ぐからだ。
自分の中に命があふれてきたら隣人になれるのではなく、隣人になることで命があふれてくるということだ。自分の中に愛が溢れてきたら隣人になれるのではなくて、隣人となっていくことで神の愛が自分の中を流れていき、その愛に満たされるようになるのだと思う。私たちの中に愛が溢れるため、そして喜びが溢れるため隣人となりなさいと言われているのだろう。