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礼拝メッセージより
説教題:「悔い改め」 2003年3月2日
聖書:ルカによる福音書 13章6-9節
ガリラヤ人の災難
直前にある事件が起こったことが書かれている。実際にどういう事件が起こったかは定かではない。がこの類の事件はときどき起こっていたであろうと思われる。一説によると、ローマの役人でこの地方の総督をしていたピラトはエルサレムに新しい用水路を造るために神殿の金を使用させようとした、このことでユダヤ人たちは激しく怒り暴動が起きそうになった、そこでピラトは兵士たちを変装させて群集の中に潜りこませ、合図と共にいっせいに群集を襲い、解散させた、兵士の中には乱暴な者がおり、かなりのユダヤ人が殺された。それがこの箇所の出来事となった事件ではないかと考えられるのだそうだ。
そのニュースを誰かがイエスに伝えた。
シロアムの塔の災難
イエスはそのニュースを聞き、その災難に遭った者がほかの誰かよりも罪深い者だったと思うか、と聞く。当時そのような考えが支配的だったようだ。災難に遭うもの、いわゆる不幸な目に遭う者は罪深いからだと考えられていたらしい。病気も、事故も、災害に遭うのも、それは罪の結果だと考えられていた。
しかしイエスはそのことを真っ向から否定する。「決してそうではない」という。そしてシロアムの塔が倒れて18人が死んだ事故の話しをする。この事故も実際どのようなことだったのか定かではない。そしてこの事故の犠牲者もほかの人たちより罪深かったから事故に遭ったのではない、と告げる。ここでも「決してそうではない」と語る。
この事故が先ほどのピラトによる用水路の工事での事故だとすると、それは神殿の金を使ったから神の罰を受けたのだ、ということになるのも肯ける。日本で言う"ばちがあたった"というふうに人々は思い、ざまあみろという気持ち、あるいは私でなくてよかったという気持ちになったであろうことは容易に想像できる。だからそんなことはしては駄目だ、と思う。しかし逆に言えば、そういうことをしていない私たちは大丈夫なのだ、ということになる。
しかしイエスはそうではない、と言う。災難に遭った、災害に遭った者たちだけに罪があったわけではない、みんな変わらないんだ、あるいは全ての人間が同じように滅ぼされてもおかしくはないんだと言う。
お前こそ
お前こそ悔い改めないといけない張本人ではないのか、とイエスは迫っている。自分は立派、自分は大丈夫、自分はあんな奴等とは違う、と思っているその本人に向かってイエスは語り掛ける。
よきサマリア人、の話しでも、実はあれは自分たちこそ優れている、神に近い、神に喜ばれていると思っている祭司、律法学者たちに向かって、お前たちよりもお前たちが軽蔑しているサマリア人の方がよっぽど神に喜ばれている、という痛烈な批判だったのかもしれない。
自分たちは誰かよりも優れていると思っている者に向かって、お前こそ自分がわかっていない、お前こそ思い上がっているのだ、と語っているのではないか。
見えると言い張るところに罪がある
自分は分かっている、と思っているところに落とし穴がある。自分こそ神を知っている、神に近い、そう思っている時、そんな目でまわりの者を見る時、あいつらは何も分かっていない、俺は神に選ばれてきた、あの人たちは選ばれていない、そんな風に思ってしまう。教会も、私たちはきよいんだ、教会の外の人とは違うんだ、と思ってしまいがちだ。自分はほかの人よりも少し高い所にいると思いがちだ。他の人よりも立派だから選ばれたと思っている、外の社会よりも立派でないといけないと思っているとしたらそれは大分違うのではないかと思う。教会は立派な社会人の集まるところではない。立派な社会人を養成する所でもない。
教会は立派な社会人ではなく、立派な教会人の集まりであってほしい。立派な社会人は自分たちのお陰でこの世界は成り立っている、自分たちはいつも正しいことをしている、俺はこれだけのことをしてきた、なのにあいつらは何だ、なんてことを思っている。もっとしっかりしろ、俺たちのようにもっとちゃんんとしろ、なんてことを言う。けれどもイエスはそんな人間になれとは言ってはいない。イエスは隣人を愛しなさい、苦しんでいる者の隣人となりなさいというのだ。立派な教会人とは、誰かよりも優れている人のことではなくて、どこまでも愛する人、どこまでも隣人となろうとする人のことだろう。そして自分の罪をいつも自覚している人、自分こそ神に赦されなければならない人間であることを自覚している人のことだろう。
悔い改め
悔い改めれば天国にいける、と言う。まだ神を信じると言っていない人に向かって、悔い改めなさいと教会は言う。なんだか自分たちはしっかりと悔い改めているかのように。でもそんな教会の中の人間にむかってイエスは、お前たちだって悔い改めないといけない人間なんだ、お前たちこそ悔い改めないといけない、と言っているのではないか。
悔い改めるとは方向を転換することだ。神を見ない生き方から、神を見る生き方へと方向を転換することだ。だから悔い改めとは神を見る、そして神に聞く生き方をしていくということだ。私が悪うございましたと言って、もう全部赦されたからもう天国にいける、もう合格した、もう何もしなくても大丈夫、というそんな天国行きの切符をもらうことではないだろう。そうではなく、いつまでもしっかりと神を見ていく、しっかりと神に聞いていく、そしてその神の言葉によって生きていくこと、それが悔い改めるということだろう。
園丁
3年間実を結ばないいちじくの木の話しをする。もう切り倒せ、と言う。しかし、そこの園丁は主人に、もう一年待ってくれ、肥やしをやってみるから、と言う。きっとこの言葉は神の裁きに対して執り成しをするイエスの言葉なのだ。3年間とはイエスの宣教活動と重なるのかもしれない。もう1年、とは単なる延長ではなく、イエスの決意の言葉なのだ。この年に達成しようと決意していた救いのわざを思っての決意の言葉なのだ。
そしてイエスはその救いのわざを行った。自らが十字架にかかるという仕方で救いの業を行った。そのことによって初めて私たちは赦されているのだ。イエスの十字架によってかろうじて赦されているのだ。自分たちが偉くなったのでも立派になったのでもない。何も変わらない、罪を持ったままだ。赦されている、が神になった訳ではない、神の側に立つようになったわけでもない。神の側に立って邪悪な世界にいる人たちを見るようになった訳ではない。
自分の中には赦される理由は何もない、ただイエスの十字架によってなのだ。悔い改めるとは自分ではどうすることもできない、と認めることなのだろう。自分はどうしようもない罪人である、滅ぼされても仕方ないような者であることを認めることだろう。ただ神の憐れみによって、イエスの十字架によってだけ救われることを認めるということだろう。
だとすると、私は悔い改めました、だからもう大丈夫なんて偉そうに言えないということになる。悔い改めてきよくなりました、なんて言えるのだろうか。悔い改めるとは自分の罪を思い、自分の無力さを思い打ちひしがれることなのだろう。そこでイエスの声を聞き、イエスの十字架を見上げることなのだろう。
自分こそ一番に赦されなければならない人間であることを自覚していくこと、それは大きな重しをひっぱって生きていくような辛いことだ。けれども実はその重しがあることがとても大事なことなのだと思う。重しがなくなってしまうと私たちはどこへ行くか分からないような人間なのだ。どこまでも舞い上がってやがて割れて落ちてしまうような風船のようなものだろう。重しがなくなると、人のダメさばかりが目についてしまい、誰に対してもけしからんという気持ちばかりになってしまう。そこでは人を愛すること、隣人となることができなくなってしまう。自分の罪や自分の痛みをずっと抱えていくこと、そんな重しがあることで初めて、人は人を愛することが出来るのだろうと思う。そこで初めて優しくなれるのだと思う。悔い改めるということは、神を見上げつつ、そんな重しをずっと抱えていくことなんだろうと思う。