前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
説教題:「後回し?」 2003年2月16日
聖書:ルカによる福音書 7章36-50節
選択
人生は選択の連続だ。小さなことから大きなことまでいつも何かしら選択している。そしてそこでは何か判断する基準がある。だいたい自分に得になることであればそちらを選ぶ。
明日
買い物だけではなく、人生においてもいつも選択の連続だ。
明日やろうと思うことがよくある。これは今日やらなくても大丈夫、明日やろうと思うこともよくある。疲れていたりするとよくある。でも明日がずっと来ないままにすぎてしまうことがよくある。
急ぎの仕事は一番忙しい人に頼め、ということを聞いたことがある。
とにかく、何から手をつけていくか、何の仕事を先にしていくか、何を後回しにするかということをいつも考えながら、選択しながら私たちは生きている。
従う
イエスに従おうとした、あるいはイエスに従いなさいと言われた3人の人の話が出てくる。
最初に人は自分から従おうとしている立派な人だった。「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」というような人だった。一見こんな立派な人はなかなかいないような気がする。こんな人がいたら、この人すごな、と見つめてしまいそうだ。けれどもイエスはそれに対して「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」なんてことを言う。あんたはそんなこというけれども、私に従ってくると言うことは、ちゃんと枕して眠ることもできないようになる、そんなことなんだぞ、と言うことなんだろうか。折角ついていく、って言っているのにそんなこと言わなくてもいいじゃないかと言う気がする。
この人はなんで、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参りますなんてことを言ったのだろうか。とても立派なことのように聞こえる。そしてこう言った人も案外自分自身でもそうすることは立派なかっこいいことだという気持ちがあったということかもしれない。イエスに従っていくこと、そしてどこまでもついていくと自分から申し出ること、それはとてもかっこいい見栄えのいいことだという気持ちがあったということかもしれない。
マタイによる福音書の8章18節以下にも同じ内容の話しが出てくる。そこを見ると、どこへでも従っていきます、と言ったのはある律法学者だったと書かれている。イエスと論争したり対立したりしていた律法学者がどうしてそんなことを言ったのか。ある人はそれは自分のその時の生き方に飽き足りなくなって、あるいはこのまま律法学者でいることに満足できなくなったか、挫折してしまったか、この際イエスにでもついていくかというような気持ちだったのではないか、というようなことを言っている。今の生き方がいやで、たまたまイエスという面白そうな人がいたから今度はこっちへ乗り換えてみようか、という気持ちだったのかもしれない。イエスはそんな気持ちで自分についてこようとする者に、自分に従うということはそんなことではない、自分に従うということはそのことがかっこいいことだから、それがステイタスとなるから、ひとつのきれいな勲章のようなものとなるからとかいうようなものではないということ、あるいはまた今までのつまらない生活から逃げ出すための代用品でもないということを言おうとしているのかもしれない。イエスに従うということは、神を信じるということは、そこから突然華やかな生き方が始まるとか、苦しみも悩みもない全く別の栄光に満ちた道が人生が始まるとかいうことではなく、むしろ今までのしんどい生き方、苦しい大変な人生を、つまり枕するところがない人生をしっかりと受け止めていくということなのだ、そんな人生をしっかりと背負って生きていくことなのだということを言おうとしているのではないかと思う
2番目の人は、イエスの方から「自分に従いなさい」と言われた。そうするとその人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言ったという。父親が亡くなってこれから葬儀をしようか、というような人に向かって従いなさいといったということなのだろうか。イエスはそれに対して、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と言ったという。自分の親が亡くなったとしたら何をさておいても駆けつける。ところがその父親の葬儀を放っておいても神の国を言い広めなさいという。ちょっとひどすぎるような気もする。そこまで言うかという気もする。父親の葬儀という、世の中で一番大事にしているような儀式さえも、教会の働きのためには犠牲にしろと言っているかのように聞こえる。けれども本当にそんなことを言っているのだろうか。世の中のことよりも神に国を伝えるという宗教的なことの方を何があっても優先させなさいということを言われているのだろうか。父親が生きている間は自分は自由になれない、父親が亡くなって葬儀を済ませてからは自分の自由に出来るからイエスに従うこともできる、という風な解釈もある。
父親の葬儀をすっぽかすっていいうのは今の日本でも大変ことだし、当時のユダヤでも大事だろう。そんなことしたらみんなから何を言われるか分かったものではない。しかしイエスは、死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい、と言う。命の根源は神にある、生きるにしても死ぬにしても神の支配の下にある、けれどもしばしば葬儀がただ単なる習慣となったり、何か汚らわしい行事になったりしていることがある。生きている根源である神のことが抜け落ちたままでいることをイエスは死んでいる者と言ったのかもしれないと思う。生きている間は大事にしなんのに、死んでから丁重に扱うというようなこともある。
老人ホームを始めた人の話を伝え聞いたことがある。今は老人ホームに入りたい人がいっぱいいてなかなか入れない人もいっぱいいるそうだが、そのホームに入っている人が病気になった時に子どもに連絡すると、病院に連れて行かなくていいとか、治療費を請求しても送ってこないという子どもが結構いるそうだ。その人はそんなことがよくあるので老人ホームをやらなければよかったと思うようになったそうだ。案外そんな子どもは、親が亡くなると盛大に葬儀をするのかもしれないと思ったりする。生きている間に大事にしておけば、葬儀をりっぱにしないといけないとはことさら思わないような気がする。葬儀を立派にという思いの中には、生きている時よりも死んでからの方を大事に使用という気持ちがあるのかもしれない。でも死んでから大事にされても本当は仕方ない。死んでしまった者にはそんなのは実際関係のない話しで、そこでどんな立派なことをしてもそれはそれこそ残された者の自己満足、自分の名誉でしかないのかもしれない。そしてイエスはそんな風に生きている者を大事にしないで葬儀だ葬儀だ、葬儀が大事だというようなことに対して、神の国を言い広めなさい、今生きている者を大事にしなさい、自分の名誉とか名声とかに捕らわれるのではなく、今生きている、今隣にいる人のことを大事にしなさい、私に従うとはそういうことなのだと言われているのではないか。
第三の人もイエスから呼ばれたけれども、従いはするけれどもまず家族にお別れを、と言ったという。ちゃんとお別れをしてから行きます、と言った。それに対してイエスは、鋤に手をかけてから後を顧みる者は、神の国にふさわしくないと言ったという。鋤は牛や馬にひかせて畑を耕す道具で、そんな仕事をしているときに後を見ていたのでは仕事にならないし、下手をすると怪我をしてしまいかねないようなことでもある。
イエスに従うこと、それは家族と相談して決めることでもないし、準備万端整えて、みんなに認められて家族ともお別れしてそれから始めるということではないということだろうか。イエスを信じるということは全く個人的な出来事で、誰かと相談して決めるようなことではない。けれどもまたイエスは家族と信仰を秤に掛けてどっちを取るかと迫っている訳ではないだろう。イエスに従うことを喜ぶ者はそのことを家族にも周りの者にも伝えていく。
神を信じるということは、今まで来ていた古い服を脱いで、新しいおしゃれな服に着替えるというようなことではない。キリストというコレクションをひとつ増やすことでもない。神を信じるということはそんな自分の外側に神というブランドをつけることではないだろう。そうではなく自分の真ん中に神を迎え入れると言うことだろうと思う。誰でも自分の中心には自分がいる。それをのけてしまうことはきっと無理だろう。けれどもその中心にいる自分のそのまた中心に神を迎え入れるようなものだろうと思う。神が自分を愛し憐れみ、この自分を下からしっかりと支えてくれていることを認めていくことだろう。
私たちの苦しい人生、大変なことがいっぱいある人生を、そんな人生を神がしっかり支えてくれていることを知ることだろう。そんな人生の真ん中に神を迎え入れること、それがイエスに従うということだろう。そうやって神に愛されて支えられている上で私たちは生きていく。その上で生きている。
後回し、なんて書いたが、これは神の時間、これは神と関係のない時間、さてどっちを優先するか、というようなことではないだろうと思う。神の関係のない時間なんてのはない。いつもどこでも神の時間の中を私たちは生きている。
私たちの中心に神がいるかどうか、イエスがいるかどうか、神の支えの中で生きているかどうか、そのことを分かっているかどうかが問題だ。
私たちはあなたを愛している、あなたをしっかりと支えている、そのことを忘れないように、そして私と共に生きるように、イエスはそう言われているのだろう。
招き
どうしてイエスは私たちを招くのか。何のため。それはもちろんここにあるように神の国を言い広めるため、ということである。ではどうして神の国を言い広めろとイエスは言うのだろう。それはそこに喜びがあるからだろう。そこに平安があるからだろう。そしてそれを広めることはその喜びがもっと大きくなるからだろうと思う。
イエスに従おう。