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礼拝メッセージより
説教題:「あなたは?」 2003年2月9日
聖書:ルカによる福音書 9章18-20節
日本人は自分の意見を言うことが苦手な人が多いようだ。街角でテレビのインタビューをされるときにも、外国の人は二人並んで聞かれてもそれぞれ別々の意見を言うことも平気みたいだが、日本人は二人並んでいると別々の意見をいうことはほとんどないような気がする。それどころか、そうだよねえ、と隣の人に同意を求めるようなことをことが多い。自分の意見をしっかり持つということをあまり尊重されないで、周りに合わせることが大事と言われている社会なんだろうと思う。そんな中で教会に来ているということは結構すごいことかもしれない。
今日の聖書の箇所は気からあなたは、と聞かれるという場面だ。あなたはどうなのか、なんて聞かれたらどきっとしてしまいそうだ。ちゃんと答えなきゃ、間違わないように、怒らせないように、なんてことをすぐ考えてしまうのは僕だけなのか。
イエスはまず「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」と弟子たちに聞く。
弟子たち「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」と答えた。
洗礼者ヨハネはこの時すでに殺されていたから、もし洗礼者ヨハネが現れたとすると死人が生き返ったということになる。
一方エリヤは旧約聖書に出てくる有名な預言者。今でもユダヤ人の評価は高い。過越の祭りのときにはひとつのいすを「エリヤの椅子」として空席として、エリヤの再来を期待する。エリヤの再来と言うことは人々の評価はかなり高い。イエスのことをエリヤの生まれ変わりだと考えているという人はイエスを尊敬していたということだろう。
イエスはさらに質問する。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」
メシアとはヘブライ語で、それをギリシャ語に訳すとキリスト、救い主のこと。もともとメシアとは油注がれたものという意味だった。それは王になる儀式を受けたもの、ということ。つまりあなたは王だキリストだ、救い主だとペトロは言った。これがテストなら 100点満点。模範解答だと思う。
ペトロが「あなたがメシアだ」と言ったということからわかるように、やがてメシアが来てくれるということは分かっていた。そしてペトロだけではなく、ユダヤ人はメシアを待っていた。いつかメシアが来て、世を改めてくれる、と思っていた。そのメシアは王として、政治的な王として来て、自分たちを苦しめる周りの強い国の支配から自分たちの国を解放してくれる者、そして強力な国にしてくれると思っていたらしい。ペトロもそう思っていたのかも。
でもイエスは、ペトロにメシアとはどんなものなのか、なんてことは聞くこともしないで、わたしのことを誰にも話すな、と命じただけだ。どうして話すなと言うのか。ペトロも民衆もメシアに対して違った期待を持っているからなのか。
それからイエスは自分が苦しみを受け、殺され、三日後に復活することを話しはじめたと書かれている。
ルカによる福音書ではそのイエスの話だけで終わっている。マルコによる福音書8章27節以下のところにも同じ内容のことが書かれている。そこを見ると、イエスが殺され復活するということを教えたすぐ後でペトロがイエスをわきへ連れていっていさめはじめたことが書かれている。
なかなかすごい態度。イエスの保護者みたい。ペトロはイエスの前に立ちはだかってしまった。そして自分の信じる道へ、イエスを引っ張っていこうとしているみたい。しかし、イエスはそんなペトロをすごい言葉でしかる。「サタン、引き下がれ」。ペトロを悪魔呼ばわりしている。こんなことを言われたら、腹を立ててどこかに行ってしまいそうだが、それをしないで、ついていくところがペトロのいいところか。
人間はまわりの者を自分の都合のいいように変えたいと思う動物のようだ。自分の子どもにだって、そう思ったりする。親の言うことをよく聞く子になってほしいなんて思って、思うようにいかなくなると叱ったりたたいたりする。子どものことを思ってやっているうちはいいのかもしれないが、案外親のストレスの解消だったりすることもある。と自分自身そう思うことがある。親はなんでも躾けだ、ということにしてしまうこともできる。子どもが虐待によって死んでしまうというニュースが時々流れるが、どんな酷いことをしていても大体親は躾だと言うようだ。躾の一言で片づけられては子どもはたまったものではないだろうなと思う。
子どもに対してだけではなく、あなたはこうあるべきだ、こうすべきだ、なんていう見方をすることは多い。わくにはめるというか、型にはめるというかそういう見方をしがち。日本人だからという言葉をよく聞く。日本人だから正月には神社はお寺に初詣にいくものだとか、日本の国を愛するべきだとか言う。あるいは温泉の露天風呂に入りながらとか、日本料理を食べながら日本人でよかった、なんてことを言わせているテレビもよくある。日曜日に教会に行くなんて人はそんなあるべき日本人からはとっくに外れてしまっているようだ。キリスト教というような少数者から見るとおかしなそんな見方が最近特にはやりだしているように感じるのは気のせいなんだろうか。
けれども私たちも案外いつの間にはそんなおかしな見方をしがちかもしれない。男はとか女はとかこうあるべきだ、なんて見方をよくする。若い者はこうすべき、年取ったものはこうすべきという見方をよくする。もっとひどいのになると、A型だから、とかさそり座だからこうだ、なんていうのもある。ひとり、ひとり違うのに、そのひとりのありのままを見ないで、こいつは日本人だからこうに違いない、男だからこうするに違いない、女だからこれをするのが当たり前だ、なんてことを言いだす。そしてその自分の考えるあるべき姿にそぐわないと日本人のくせに、男のくせに、女のくせに、子どものくせになんだ、ということになる。
ペトロも同じだったのではないか。キリストのくせになにを言ってるんですか、あんたキリストでしょう、もっとしっかりしなさいよ、ということだったんじゃないだろうか。ペトロにとってはメシアというのは立派で勇ましくて強くて泣き言もいわなくて、偉くてカッコいい人物のイメージがあったのかもしれない。それでこそキリストなんだ、と思っていたんじゃないか。
キリストが殺されるなんて、そんなことをいっちゃあいけませんよ、と思っていた。イエスのことをキリストだ、と言った矢先に、あんたはキリストなんだからそんな自分から殺されるなんていうもんじゃありませんよ、ということなのだろう。
イエスがキリストだというなら、イエスのことをよく見てからキリストとはこういうものだ、と思えばいいのに、キリストとはこういうものだからあんたはその通りにしなさい、ということになってしまっている。キリストとはどういうものかということをペトロは、他の誰かが言っていることとか、自分のそうあって欲しいという願いとか、そんなものから自分で作り上げていたのだろう。
イエスは自分のことを勝手に自分の都合のいいように作り替えようとするものをサタンだと言った。ペトロは十分にイエスを理解していなかった。この時には。自分の中にあるキリストのイメージのために、キリストとはこうあるべきだ、こうあるはずだという思いがあるために、イエスの真の姿が見えなかったのだ。ペトロはイエスの十字架と復活を経験してからイエスの真の姿が見えてきたのかもしれない。
そうすると、ペトロがあなたはメシアだと言ったけれども、メシアがなんなのか、キリストがなんなのか、さほど分かってはいなかったということになる。マタイによる福音書16章13節以下 にも同じことが書いてある。ところが、そんなあまりよく分かっていないと思われるペトロの上に教会を立てる、という勿体ないようなことまで言われている。それでいいのかな、なんて思う。しかしこれこそが神のすごいところだ。
多分この告白をしたとき、ペトロはイエスのことをほんの少ししか知ってはいなっただろう。しかしイエスはそこから教会を起こしてしまう。イエスの十字架を目前にしてペトロはイエスを見捨てて逃げ出してしまった。そんなペトロの上に教会を建てるという。
ペトロの告白は私たちの信仰告白に似ている。私たちもイエスのすべてを知らない。そして多分誤解していることもいっぱいあるに違いない。しかし、少しを知った所から信仰は始まっている。そこから教会は始まっているのではないか。そしてキリストをしっかり見つめながら少しずつキリストを知っていく。時々イエスからそうじゃないぞなんて言われながら。
「それではあなたは」とイエスは問う。あなたの社会は、日本ではどうかではなく、あなたはどうなのかとイエスは言われる。私たちはどう答えるのか。「よく分からんけどあなたがキリストであることは知っています」というのが私たちの答えかもしれない。でもそんな私たちをキリストは自分の教会へと招いてくれている。そして自分の大事な務めを託されているのだ。
神を信じるなんて教会に行くなんて変人だとか弱い人だ、なんて言われるとそうなのかと思ってしまう。そんな風に誰か他の人の言葉によってすぐに動揺するのが私たちの姿だ。周りの人がどんな目で見ているか、どれほどキリストを教会を認めているかとても気になる。けれどもそんな私たちに向かって、キリストは、あなたは私をどう見ているのか、と問いかけておられるのだろう。あなたはどうなのかというイエスの言葉は、私たちを試すための言葉ではなく私のことをしっかりと見なさい、周りの声だけに流されて私を見失うことのないように、しっかりと私を見つめなさい、あなた自身で私を見つめなさいというふうに、私たちを招く言葉なのではないか。