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礼拝メッセージより
説教題:「ゆるし」 2003年2月2日
聖書:ルカによる福音書 7章36-50節
ファリサイ派
ファリサイ派は新約聖書ではほとんどイエスの敵のような存在だ。ファリサイ派や律法学者たちがイエスを殺そうと計画を立てたことが聖書には書かれている。そんなファリサイ派のひとりシモンがイエスを食事に招いた。
何のためにイエスを食事に招いたのだろうか。シモンは他のファリサイ派の者たちとは少し違っていたのだろうか。みんなが敵対視している中でイエスを招いたとすると周りの意見に流されないしっかりした考えを持った人物であるということかもしれない。39節にあるようにイエスのことを預言者かもしれないという気持ちを持っていたのであろう。また40節でも「先生」と呼びかけている。もちろんその確信があったかどうかは定かではないが、彼はイエスを食事に招いて果たして本当に預言者なのか、メシアなのか、そんなことを知りたい、自分で確かめたいという願いがあったのだろう。
罪の女
ちょうど、その食事の場にそのシモンの家に一人の女がやってきた。37節ではこの人は罪深い女だと書かれている。口語訳では「罪の女」となっている。単なる比較的罪の多い女ということではなく、この言葉は娼婦を意味する言葉だそうだ。世間の誰からも変な目で見られていたことであろう。しかし彼女はこの時は脇き目も振らずイエスのところへまっしぐらという感じがする。冷たい世間の目をこの時ばかりはまるで気にも留めていないかのようだ。
彼女はほとんど回りが自分のことを、また自分の行動をどう見るかなんてことに気をまわす余裕さえないかのような振る舞いをする。
彼女は「後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」(38節)
シモン
突然の出来事にシモンはびっくりしただろう。シモンはこの女をすぐに追い出すこともできただろう。しかし彼はそんなことはしなかった。シモンはイエスが預言者なら女が売春婦であるとわかるはずだ、と考えた。この女の素性が見抜けるならばあるいは本当に預言者かもしれない、さあ、見抜けるか、見抜けないか、そんな気持ちでこの状況を見ていたのではないか。
シモンの心の中はどんなだっただろう。突然起こった出来事にわくわくどきどき興奮していたのだろうか。彼この後どうなるか、二通りの情景を想像していたんではないだろうか。一つはイエスがこの女の素性を見抜けない場合、その時シモンはイエスに対して、この素性も見抜けないようではあんたも大した事はありませんなあ、と言う。もう一つはイエスがこの女の素性を見抜いた場合、その時シモンはこの女を追い払うであろうイエスを尊敬のまなざしで見る。そのどっちになるのか、これでイエスの本性も分かると期待して見守っていたのではないか。
イエス
イエスは多分当時の習慣に従って寝そべって食事をしていたであろう。そんな時後ろからこの女は近づきイエスの足に触れてきたのだ。イエスもびっくりしただろう。慌てて足をひっこめることもできたであろう。足を引っ込めることでこの女との関係を一瞬のうちに絶つこともできたであろう。女の姿を見て、やめろ、と言うこともできたであろう。しかしイエスは何も言わず女のするままにさせている。
イエスのとった態度はシモンの想像したと考えられる二通りのどちらでもなかった。イエスはこの女のされるがままにさせている。しかもこの女の素性を知っての上でだ。
しかしイエスはこの女に黙って触れさせた。そのことによってイエスもこの女と同じ非難を浴びる側になったということだろう。お前は罪の人間の仲間だと。
シモン
シモンにとってはそれは考えられないことだった。売春婦に黙って足を触れさせるなんてことはシモンにとっては身の毛もよだつようなことだったのかもしれない。売春婦というような、罪ある者とされている人間にはは指一本触れさせたくないという気持ちだったのだろう。
髪
この髪と涙とはどういうことなのか。
『いったいこの女性は何をしたんでしょう?現代のふつうの感性には、フェミニズム神学者でさえ感じ取れなくなっている彼女の内面を、鋭く感じ取って共感した女性たちについてのレポートがあるんですよ。遠藤雅己氏(在マニラ聖公会宣教師)が、マニラのミッドナイト・ミッションでの話しを書き伝えたものなんですね。
風俗産業で働く若い女性たちを中心にした真夜中の聖研でこの箇所を取り上げたとき、いつも黙っている二人の女性が、堰を切ったように語りはじめたというんですね。私たちにはこの女の人のしたことがわかる、体を売らねばならない自分たちの仲間でも、髪の毛だけは大切にして、客からどんなに要求されても髪で客の体を拭くようなことはしない、まして足なんか・・・・。髪は金銭のためじゃなく、女性としての誠実な思いから、客じゃない相手との特別な関係のためにとっておくんだ、と。自分の肉体を売るほか家族を支えるすべを奪われた娘さんたちが、愛する人に人間としての誠実を示す最後の宝として大切にしているのが「髪」だというんですね。
それから、涙についてもこう語ったそうです。家族のためやむを得ず体を売っているのだけれど、自分のしていることは家族に内緒にしなければならない、よりよい将来のためにと思ってやっているのだけれど見通しは暗い、信仰が唯一の慰めだけれど、その信仰は自分のしていることを「罪」として責める。そういう矛盾を背負いこんだ自分たちを、まるごと受け入れてくれる相手に出会った喜びと愛の涙なんだ、と。』(渡辺英俊『片隅が天である』新教出版社)
この女も仕方なく売春婦をしていたのではないか。家族を養うためにしかたなくしていたのではないか。しかしそのために社会からは白い目で見られ、自分でも後ろめたい気持ちを持っている。
そんな罪の女をイエスは受け入れる、まるごと受け入れている。
現象
私たちは現れた現象面だけでその人を判断することが実に多いように思う。変な格好をした人が教会に現れると、おかしな奴が来た、としか思わないことが多い。罪ある者が来た時には、あいつは罪がある、なんてしか思わない。どうしてそうなったのか、なんてことまで何も考えない。
ある教会に髪を伸ばして一見女性のような風貌の若い男の人がやってきたそうだ。当時はそんな男性は珍しくて教会の人も最初はびっくりしたそうだ。しかしその男の人は続けて礼拝に出席するようになった。後で彼が言うには、礼拝に続けてくるようになった理由は、教会の人がみんな普通に挨拶してくれたからだ、ということだったそうだ。どこにいっても自分を変人のような目で見る見つめる視線を感じていたけれど、教会だけは普通に接してくれ、普通に挨拶してくれたから続けてくるようになったと。つまり教会が彼を受け入れようとしていることが彼に分かったから彼は続けて来れたのだ。教会が、あなたはここにいていいんですよ、ということを彼に伝えたから彼は安心して来れたのだろう。ここにあなたの座る椅子がありますよ、という思いを教会のみんなが持っていたから彼は続けて来ることができたのだろう。
さばき
シモンは罪の女を罪の女としてしか見ていなかったのだろう。しかも自分には罪がないかのような気持ちで。神の側に立ってこの女を見ていたのだろう。神の側に立てば誰もが罪ある者と見えるに違いない。誰に対しても罪を発見できるに違いない。
ところがそんな神の側に立って人を見るということはほとんど私たちの習性でもある。そしてなんでそんなことをしているのか、どうしてやめられないのか、なんていう目で見てしまう。罪を犯すのはやめなさい、なんてもっともらしいことを言ったりする。ほとんど神に代わってお仕置き、って感じになって。罪ある人間であることをやめてしまって神になってしまう。
ところがイエスはそんなことはしなかった。イエスは彼女の罪を責めるようなことは何も言っていない。彼女をそのまま受け止める。彼女のしたいようにさせる。きっとイエスは人間の側に立っているのだ。矛盾を抱えてやっとの思いで生きている、その矛盾をどう克服すればいいのかも分からない、いろんな不条理に立ち向かう力もなく、きれい事を言っておれる状況でもないようなところでなんとか生きている、そんな人間の側に立っている。罪を抱えて苦闘している人間の側にいる。
感謝
罪の女の突然の振る舞いは彼女の以前の失望の裏返しなのだろう。誰も分かってくれない、誰も理解してくれない、誰も自分のことを受け止めてくれない、しかし初めて自分を、罪のある自分を、罪のあるままに受け止めてくれるイエスに出会った、そんなあふれるほどの感謝、喜びの表現だったのだろう。
罪の女として周りから痛めつけられていたのだろう。しかし彼女はついにイエスに巡り会った。自分のことをありのままに受け入れ、自分のことを解かってくれる、自分のことを責めない友を発見した。その喜びが彼女をこの行動に駆り立てているのだろう。
ゆるし
しかもその友は罪を赦すことのできる方だった。罪を赦すことができる方だからこそ罪ある者をありのまま受け入れることができるのだろう。
あなたのことは良く分かっている、あなたのことを捨てはしない、誰もが見捨てたとしても、誰からも冷たく見られたとしても私はいつまでもあなたの味方だ、イエスはそうこの女に語り掛けているのではないか。そしてそのままを私たちにも語っているのではないか。
愛の大きさ
イエスは47節で、 「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」と語っている。
多くの罪を赦されたことは愛の大きさで分かるというのだ。赦された喜びの大きさは愛の大きさとなって現れるということだろう。喜びの大きさはその分他の人への愛となっていくということだろう。
教会にやってくる人はどういう人なのだろう。教会にはいろんな人がやってくる。いわゆるおかしい人、変わった人もいっぱいやってくる。なんだこいつはというような人もいる。自分のことはさておいて。シモンのように、こいつは罪深い人間だ、というような見方をしまいがちだ。けれども教会に来る人は誰もがイエスに会いに来ているのだろうと思う。ぼろぼろの服を着て、ぼろぼろの心でやってくる人もいるだろう。けれどもみんなイエスに会いに来ているのだと思う。その人がそれを意識しているかどうかは分からないが、世界中の誰でも、犯罪者でも、イエスに会うことはできる。
私たちにとって大事なのは、そう言う人たちのことをどんな人なのかと詮索することでも、教会にきていいかどうかを区別することでも、その人の間違いを責めることでもなく、その人をイエスに会わせる、と言うよりもイエスに会う邪魔をしないこと、そしてその人を愛することなのだと思う。
私たちはたまたま少し早くイエスに出会ったというだけなのだ。きっと。私たちも同じ罪人なのだ。私たちの愛が大きくないとしたら、それは私たちがもっともっとイエスに罪を赦してもらわないといけないということなのだろう。もっともっとイエスに赦してもらわないといけない罪があって、それを抱えたままか、あるいはこんな自分は赦してもらえないと思って罪を心の奥に閉じこめているということかもしれない。
私たちの全てをなげうってイエスにすがる時、イエスは私たちの全てを受け止めてくれる。そこに大きな愛が生まれる。