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礼拝メッセージより
説教題:「大切なこと」 2003年1月26日
聖書:ルカによる福音書 10章38-42節
マルタとマリア
今日の聖書にマルタとマリアという姉妹が出てきます。ルカによる福音書では彼女たちが住んでいたのは「ある村」としか書かれていませんが、ヨハネによる福音書では彼女たちはベタニヤというエルサレムに近いところに住んでいたと書かれています。そして彼女たちにはラザロという一人の兄弟が居て、彼はイエス様に生き返らされたことが書かれています。イエス様はこの3人を良く知っていたようで、ヨハネの福音書には「イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。」とあります。イエス様は彼らとかなり親しくしていたようです。
イエス様を迎え入れたこの二人の姉妹の態度は対照的です。姉のマルタは出来るかぎりのもてなしをしようとして忙しく働いています。「一行が」とあるように、この時お客はイエス様一人ではなく何人かの同伴者もいたようです。その人たちの食事などのもてなしの用意でとても忙しかったのでしょう。彼女は自分がこんなに忙しくしているのに、ちっとも手伝おうとしないで、イエス様のそばでじっと話を聞いている妹のことでいらいらしてきます。
マルタはイエス様にむかって、妹に手伝いをするように言ってくれと頼みます。マルタはマリアに聞いてもらっていることを喜んでいるイエス様の態度も気に入らなかったのかも知れません。
これに対しイエス様はマルタの期待したことをしてくれません。イエス様はマリアにむかって姉の手伝いをするようにとは言いませんでした。それどころか、逆にマルタのほうをたしなめています。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
どっち
ここからしばしば教会ではマルタとマリアとどちらが優れているか、御言葉を聞くことと誰かをもてなすというようないろんな奉仕とどちらが大切なのかというような解釈をしてきました。ぼくもそうだと思っていました。マリアの様にイエスさまの話しを熱心に聞くことこそ第一なのだ、もてなしなんてのはそれにくらべればたいしたことではない、そっちのほうに気を取られて熱心に聞いている者の邪魔をするなんてのはけしからん。そんな意味だと思っていました。
教会では自分がマルタなのかマリアなのか、なんて話しをよく聞く。食事の準備、お客様のもてなしなんていう重要でない仕事をさせられているから自分はマルタだ、あなたはマリアのように聞くだけでいいね、というような言い方をすることも聞きます。
もちろん聞くこと、イエスさまに聞くことはとても大事なことでそれを抜きにしては何も始まりません。ところがではもてなしはそれに比べればどうでもいいことだとイエスさまが言ったのかというと、どうもそうではないらしいのです。
ディアコニア
40節の「もてなし」という言葉は、ギリシャ語ではディアコニアという言葉です。この言葉は「奉仕」とも訳される言葉です。
この言葉は使徒言行録の6章にも出てきます。教会のリーダーたちが「神の言葉をないがしろにして食事の世話をするのは好ましくない」といって7人の執事を選び、自分たちは祈りと御言葉の奉仕に専念しようと言います。ここの「食事の世話」が「食事の奉仕(ディアコネイン)」という言葉なのです。つまりリーダーたちは御言葉のディアコニア、執事たちは食卓のディアコニアを担当したということです。
しかし必ずしも食卓のディアコニアがあまり重要でないから分けたのではなく、この担当者は「霊と知恵に満ちた評判の良い人」を選んだようにとても大事なつとめだったということです。
マルタのもてなしも同じディアコニアという言葉であるということは、マルタのもてなしは食卓のディアコニアにあたる大事なものであるということです。御言葉を聞くことと同じ重要なことなのだ、と言うことです。
よいもの
つまりイエスさまがマルタをたしなめたのはいろんな奉仕よりも御言葉を聞くことの方が大事なことだからそれを邪魔してはいけないということではないということになります。
42節に「マリアは良い方を選んだ」とあります。ところが原文には「方」という言葉はないそうです。直訳すると「マリアはよいものを選んだ」となるんだそうです。つまり御言葉を聞くことの方がもてなしなどの奉仕をすることよりも大事で、そっちの方を選んだ、という意味ではないということです。イエスさま自身もそういうふうに二つを比べてこっちの方が大事、と言ってはいないということのようなのです。
弟子
ではイエスはなぜマルタをたしなめたんでしょうか。それはマリアがイエスさまの足もとに座って聞いていることに対して腹を立てている、そのことに対してだということのようなのです。
39節に「マリアは主の足もとに座って」という言葉があります。この、足もとに座る、という言葉は弟子となるというような意味合いがあるそうです。マリアが主の足もとに座るということはイエスさまの弟子となりイエスさまの言葉を聞いていた、ということになります。
当時の一般的な社会での風習として、女性には客を接待する役割が振り当てられていました。それを怠って、女性が男のように弟子としてふるまうなどということはけしからんことだったのです。つまり当時の常識としてはマリアに対するマルタの非難は至極尤もなことを言ったまでだったようなのです。
非常識
ところがイエスさまは女性が弟子としてふるまうという非常識なふるまいを完全に認めているのです。当時男と女の間にあった超えられない境界線を踏み破って弟子として振る舞ったマリアに対して、マリアはよいものを選んだ、と言っているのです。
今でも女性がいろいろなところに進出することに対して、非常識、あばずれ、身勝手、はしたない、可愛くない、などと言われるようなことがあります。女性が差別を無くそうとしていろんな活動をしていると必ずといっていいほど女だてらに何だ、女は家庭に引っ込んでいればいい、などと悪態を吐く者がいます。しかしイエスさまはそのような非常識をもろ手を挙げて賛成し高く評価しています。
マルタは女らしい行動をとらないマリアのことをどうにかしてくれ、とイエスさまにくってかかったのでしょう。しかしマリアにとってはそれこそが彼女の奉仕だったのです。可愛くないと言われようと、女だてらに何だと言われようと、それがマリアにとっての大事な奉仕だったのです。
男は外で働き、女は家で家事をすべきだ、というような見えないしがらみがあります。そのしがらみからそれることに対してよく思わないことも多いように思います。女性が外で働いて男性が主夫をするというような家庭があると、あそこの家庭はおかしい、変だ、やめろ、などなど言いそうになったり、言われそうに思ったりします。
家事なんてやりたくない、外で働きたいという女性だって実際にいるし、外で働くよりも家事をしている方が好きだという男性もいるわけで、それはおかしいとか変だとか言うのは、そんな人たちを見えない鎖で縛りつけて苦しめているのかもしれないと思います。
教会でも、婦人会が一手に台所を引き受けているという教会がほとんどでしょう。でも女性だからということで苦しんでやっている人がいるかもしれません。男性だからということでやりたくてもやらせてもらない人もいるかもしれません。
私は台所のことはしない、という婦人が教会に来たらどうするでしょうか。女のくせにどうして何もしないのかと思うのではないでしょうか。男がお茶をいれて女が座ったままでいると、女性のくせに非常識な、と思うのではないでしょうか。けれどもそれはまさにマルタがイエスさまに文句をいったそれと全く同じことでしょう。
イエス様はそんな非常識と言われるようなところで奉仕する者に対して、また常識に合うところで奉仕する人に対しても、その人はよいものを選んだんだ、と言われるのではないかと思います。自分が望み、喜びを持って奉仕することをイエスさまは喜ばれるのだろうと思います。
大事
だから聞くか、動くかということで、私はマリアだ、私はマルタだ、なんていうのはおかしいことです。聞くか動くかどっちかなんてことはありえないでしょう。説教を聞いて祈ることが私の奉仕、その他の雑用は他の人の仕事、なんてことはあり得ないことです。だれもが御言葉を聞き、だれもが食卓の奉仕、さまざまな奉仕をする、そうであるべきだし、どちらか一方なんてのはありえないように思います。
聞くことも大事、また他の奉仕も同じように大事なのだと思います。礼拝で御言葉を聞くことも、また新しい人たちをもてなすことも同じように大事な奉仕なのだと思います。礼拝に新しく来た人をもてなすことで忙しくて、説教をゆっくり聞けなかったとしても、それで意味がないわけではないでしょう。
御言葉を聞くことが大事だから何をさておいても聞かなければといって、新しい人たちへの配慮を欠くとしたらそっちの方が問題ではないかと思います。
神を愛することと隣人を愛すること、それが一番大事な戒めであるとイエスさまは言われました。御言葉を聞くことと隣人をもてなすことは同じように大事なことでしょう。すぐ前に善いサマリア人の話しが出ています。隣人となることは相手のために自分の何かを犠牲にすることでもあるでしょう。
御言葉を聞くことが大事であることに変わりはありません。そしてそれは静かな礼拝堂で説教を聞くことだけではないはずです。御言葉を聞くことが大事だから誰も私の邪魔をするな、と言って教会は子どもを疎外してきました。御言葉を聞くことが大事だと言って、礼拝に新しく来た人たちのことをもてなすことを後回しにしてきました。けれどもそれは隣人となるように、隣人を愛するようにと言うイエスの言葉、御言葉をまるで聞いていないことでしょう。
御言葉を聞くことから隣人となり隣人を愛する者となっていく、それこそが本当に御言葉を聞いているということなのだと思います。