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礼拝メッセージより
説教題:「恵みに向かって」 2002年12月29日
聖書:エレミヤ書 31章10-14節
ささげもの
イザヤ書やエレミヤ書ではバビロン補囚の時期に語られた神から預かった言葉が残されている。その中でささげものについての言及も多い。生活に根ざしていないささげものを神は喜ばない、ということが言われている。普段の生活で不正を働きながら、ささげものをするときだけは決められたとおりにしたからといって、そんなものが何になるのか、と言われている。ささげものをするときだけ信仰深いような振りをしても何の意味もない、そんなささげものを神は喜ばないと言われるのだ。
献金
神が全てを支えてくれている、だから私たちは全てを神に任せる、全て神に差し出す、そしてその具体的な行為が献金だろと思う。だから献金はただ単に神への感謝のしるしではなくて、私たち自身を、私たちの全てを神に差し出すということの現れ、献身という言い方をするが、その現れなのだ。神さまにお世話になったからそのことについて感謝のしるしに少しお礼しますというのが献金ではない。自分はこっち側にいて、神様はあっち側にいて、神から時々か頻繁にか分からないが、良いものをくれる、いいことをしてくれる、その事を感謝してこっち側からあっち側へお金を出すというのが献金ではない、と思う。献金は取引ではないということがよく言われる。神様から何かいいことをして貰うためにお金を出すのが献金ではないといわれる。すでに神様の恵みを貰っているからその事の感謝の気持ちを表すのが献金だというふうに考えることが多いのではないかと思う。僕もそうだと思っていた。けれども最近どうもそれだけではないと思うようになってきた。
何がきっかけでそう思うようになったのかは定かではないが、思い出すことが二つある。一つは呉の盲信徒会の献金の時にいつも決まった人が献金感謝の祈りをするのだが、その人は必ず献金の時に、「この献金は献身のしるしです」ということを祈る。感謝のしるしでもあるが、同時に献身のしるしですというのだ。最初のころは何でそんなことをいうのかよくわからなかった。けれど最近はその通りだと思うようになってきた。もう一つ思い出すのは、何かの礼拝の時に聖公会の牧師(司祭)が司式をしていて、祈るときに式文を読んで祈っていたと思うけれども、その祈りの最後に、「すべてはあなたのものです」と祈った。その時妙にその言葉が心に引っかかった。献金は自分のお金を神にささげるというような気持ちがずっとあるけれども全部神のものなのだと改めて思うようになった。
神が私たちのすべてを支えてくれている、だから私たちのすべてを献げます、私たち自身を献げます、それが献金の意味だ。だから献金は、いっぱい感謝していっぱいお金を出したとしても、自分がこっち側にいたままでは本当の献金ではないのだと思う。自分には神様とは関係のない、神様と離れた自分の世界があって、神様の世界から恵みが届いた時には自分のお金の中からその分だけ感謝のお返しをするというのが献金と思ってきたけれども、どうもそうではないらしいと思うようになった。お金はいっぱい出しても、決して自分自身が動こうとしないならば、それは実は神様が喜ばないささげものと同じになってしまうのではないかと思う。
私たちは神に何をささげようとしているのだろうか。神は私たちに何を求めているのか。立派な身なりで一言も間違わないでまじめに静に礼拝することなのか、教会を立派に大きくすることか、あるいは誰からも後ろ指をさされない罪を犯さない品行方正な生活を送ることか、多額の献金か、誰にも負けないほどの奉仕か。神はそんなものを求めているのだろうか。私たちはよくそんな自分の自慢できる何かがあることで神様と初めてまともに会えると思うようなところがあるように思う。何もできない、なにもしてない自分では申し訳ない、そんな自分は神様に会わす顔がないという気持ちがあるのではないか。
けれどもどうも神様は、そんな立派な業績よりも、自分自身を持ってきてほしいと思っているらしい。神は自分のところへ来るのに、どんなすばらしいお土産も持ってこなくてもいい、多額のこづかいも持ってこなくていい、と言っている。ただおまえが来てほしい。そしていろんなささげものをするよりも、おまえが私の道を歩んでほしい、私と共に歩んでほしい、それこそが最高のささげものだ、そう思っているようだ。(イザヤ1:11〜)
何もない自分では神様の玄関の敷居が高いような気持ちが誰にもあるのではないか。けれども神さまはきっとこんな風に言っているのだと思う。お前の罪のためにイエス・キリストは贖いの死がある。もうすでにお前の罪は赦されている、だから罪があるからといって私との関係を持てない、ということはないのだ。罪のための償いはもう終わっているのだ。私とお前との障害はなにもないのだ、玄関の敷居の段差はもうなくした、だから心配しないで私のところへ来て欲しい、お前自身が来て欲しい、何かを持っていようがなかろうが、何かが出来ようが出来まいが、そんなことには関係なくお前自身が来て欲しい、そんなお前との関係を持ちたいのだ、と神は言われているのではないか。お前を愛している、お前が大事だ、だからお前の罪のためにイエスの贖いの死を用意したのだ。それほどにお前を求めているのだ、と言っているのではにないか。
神と共に歩む
イスラエルはずっと昔から献げ物はこのようにせよ、と言われてきてそしてそれなりのことをしてきた。ところが今度はそんな献げ物は何になるのかと言われる。では一体どうしたらいいのかということになってしまいそうだ。けれどもその答えとなるような言葉がミカ書6章8節に書かれている。
「人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。/正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。」と書かれている。
歩む、ことを神は求めている。イエスの呼びかけは「私についてきなさい」であった。イエス・キリストは私たちが彼と共に歩むことを求めておられる。
パウロは,キリスト者が自らを「聖なる生けるいけにえ」として神に献げることを勧めている(ローマの信徒への手紙12:1 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。)。
私たちは一体何をささげようとしているのか。何を神が望んでいると思っているのか。
私たち自身を神にささげて神と共に歩むこと、それこそ神が求めていることである。神はどんな時もいつまでも共にいる、それが神の約束であり、イエスはそのように生きて私たちにそのことを示してくれた。イエスはそのために来られ、神と私たちとの関係を正常にするために十字架につき死んでくださった。そうまでして神は私たちと共に歩むことを望んでいるのだ。神の声を聞いて、神の側へやってくること、つまり神が自分をどれほど愛してくれているか、どれほど自分を求めているか、その声をしっかりと聞きつつ神に従うことを求めている。その神の声に応えて神に全てをささげて、神と共に歩む、その現れが献金ということなのだろうと思う。献金の祈りの時に僅かなものをささげましたと祈る時があるけれども、確かに少ない額ですがと思うときもあるけれども、それはお金の話しであった、自分自身をささげるのであれば僅かも多くもなくて、いつも自分一つをささげるということになる。神様が私たちのためにすごいこと、十字架の死というすごい贈り物をくれたのだから、私たちも私たちの全てをささげてその神様の愛に、神様の恵みに答えていきたいと思う。僅かなものですが、と言って今日は右手だけささげますというわけにはいかないだろう。
そしてまたささげるということは神の共同体を支えるということでもあった。神の働きを支えるということでもある。つまり教会を支えると言うことであり、また世界中の働き、宣教師やいろんな働きを支えるということでもある。宣教師は霞を食って生きていくわけにもいかないし、遠い距離を歩いて移動するわけにもいかないし、いつもテントで寝るわけにもいかない。そこで生きるためにはもちろん食料も車も家も必要になる。いろんな経費が必要になる、私たちがささげるということはそれを支えるということでもある。そんな支えがなければ宣教師も宣教師として働けない。自分で金貯めて行く人は別だろうが、そんな人はあまり聞いたことがない。背後での支えがあることで宣教師としてやっていける。世界宣教なんてことは自分にはできないし、関係のない話しのような気がするけれども、宣教師を陰でささえるということは世界宣教の一翼を担っている事でもあるのだと思う。もうすでに私たちもやっているということだ。ただ献金してくれと言うから献金しているような気になっているかもしれないが、実際にはそのことを通して世界宣教をやっているようなものなのだ。
そんな風に教会を支え世界の働きを支える、それが献金の目的でもある。よく献金は収入の十分の一と言われるが、それをしているからそれで自分は合格だとかいうようなものではない。ある程度の目安、最低の目安という人もいるけれども、献金は税金ではないのだからそれだけ出せばもういいんだとか、出せなかったからだめだとか思うようなものではない。そうではなくて自分が教会を支え、世界を支えるということで献金するのだ。
教会で信徒は結構金持ちで牧師が貧しい生活をしている、教会の財政も苦しいのに信徒はみんな知らん顔というようなことがあると聞く。自分が十分の一献金しているかどうかというしか考えないで、教会の財政や牧師の生活のことは知らん顔で、知ってても信徒が少ないから給料も少ないのが当たり前というような他人事のようなことになってしまっているというような話しも聞く。牧師は貧しい生活をするべきだ、良い生活をすることはけしからんと思う人も中にはいるそうだ。でもやっぱりそれはおかしいので教会のため世界の働きのために精一杯ささげるというのが献金の趣旨だと思う。そして自分自身をささげることが最高のささげものなのだと思う。
マルコ12:41に貧しいやもめが自分の生活費を全部ささげたはなしがある。そしてイエス・キリストはこの人が誰よりもたくさん入れたと言った。イエスがそう言ったのは彼女が自分の生活費を全部入れて、お金だけでなく自分も神に献げたからそう言われたのではないかと思う。自分も一緒に神にささげて、全部神さまに任せた、ということではないかと思う。
そしてそれが神のためにささげることであって、そうすることが実はささげるものにとっても恵みであり喜びなのだと思う。受けるよりは与える方が幸いである、と言う言葉をイエスが言われたと聖書に書いている。それを実行するところに幸いがある。そして神のもとへ行くこと、自分が神の所へいくこと、自分自身を与えること、それは自分がなくなってしまいそうで、なにもかもなくしてしまいそうで恐いことでもある。けれどもきっとそれは最高の幸せなのだと思う。お金も有効に使うからこそ意味がある。どれほど集めていても、それを使わなければ全然意味はない。お金も私たち自身もどこでどう使うかが問題だ。世界のために、隣人のために、神が私たちに与えられているもの、私たちに預けられているものを使っていくこと、そこに私たちの生きる喜びがあるのだと思う。
初めて来る人のために教会に早く来るということもそのひとつだと思う。教会で迎えられる側から、今度は教会で迎える側へ自分をささげることが大事だと思う。教会で何かをしてもらうことを求めることが多いが、そう思っているときっと不満だらけになるだろう。今度は自分が誰かに何かをする側になるならば、何をどうすればいいかと考えるようになる。そして誰かのために何かが出来たときの喜びは、自分が何かをしてもらった時の喜びとは比べものにならないだろう。もし教会で喜びがないとしたらそんなところに原因があるのではないかと思う。自分をささげ、自分を与えるところに喜びがある。
あなた自身を献げなさい、そして私たちの恵みの中に飛び込んで来なさい、神はそう言われているように思う。私たちは恵みの外にいて恵みがない、恵みをよこせと言っているのかもしれない。