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礼拝メッセージより
説教題:「ひとりをすべて」 2002年12月22日
聖書:イザヤ書 66章10-21節
神殿
神殿の再建が思うように進まないイスラエルの人に対して、神は喜べという。エルサレムと共に喜べという。エルサレムのために喪に服していた全ての人よ、エルサレムと共に喜び楽しめ、というのだ。
神殿は破壊されてもう何十年もそのままになっている。もう一度建て直そうという話しはあっても思うように出来ないでいる。自分たちの願いが叶わない現実がある。自分たちの無力さを見せつけられている、それが目の前にある荒れ果てた神殿の姿なのだ。その姿を見るたびに自分たちの無力さを見せつけられているようなものだ。未来に希望を持つことができない。自分たちの力ではどうにもならないように思える。そんな無力感にさいなまれている中で、そしてまったく厳しい現実の中で神は喜び祝え、喜び楽しめ、というのだ。
まるで何も手に入れてはいない、神殿も建っていない、国も再建されていない、相変わらず他の国に支配されているままである。何も良くなっていない、喜ぶべき状態には全然なっていない、そこにあるのはただ喜べ、という神の言葉だけなのだ。ただ神の約束があるだけなのだ。
現実
私たちの世界もどこに望みがあるのかと思う、そんな現実がある。争いが耐えない、国と国も争い、ひとりひとりも争い憎しみ合っている。いつも周りと競争してばかりだ。
クリスマス
今日から降誕節。イエス・キリストの誕生を祝う季節。イエス・キリストは私たちのために、私たちのところへ来られた。神が私たちを愛してくれているから、来てくれた。そして私たちと共にいてくれる、いつまでも一緒にいてくれる、それが神の約束だ。神が共にいてくれる、それをインマヌエルという。私たちに神は見えない。私たちの目の前にもそれぞれに大変な状況がある。苦しい状況がある。なんだか将来に希望を持てないようなしんどいことがいっぱいある。けれどもそんな私たちのところへイエス・キリストは来てくれた。そしていつまでも一緒にいてくれる。
私たちは悩むことも苦しむこともいっぱいある。誰かに傷つけられて悲しくなったり、誰かを傷つけて悩んだりしながら生きている。誰かを恨んだり恨まれたりしながら生きている。けれどもそんな私たちを神は愛してくれて、大事に思ってくれているというのだ。お前がとても大事だ、とても大切だ、神さまはそう言っている。こんな私のどこが大事なのかと思うかもしれない。けれども神はあなたは大事な大事なひとりなのだという。あなたたち一人ひとり、みんなが大事なのだという。そしてあんたたちのためにイエス・キリストが生まれたというのだ。そして私たちの罪をイエス・キリストは全部背負ってくれた。私のためにイエス・キリストが来られた、私たちひとりひとりのためにイエス・キリストは来られたのだ。神であるキリストが自分の方から私たちのところへ来てくれた、クリスマスはそのことを喜ぶ時なのだ。
けれどもイエス・キリストが一緒にいてくれたら何の心配もなくなるとか、何でも自分の思うようになるというわけではない。いろんな大変なこともあるし、迷ったり苦しんだり悲しんだりすることもある。
若い夫婦で二人とも小学校の教師をしている人の話だったが、二人に子どもができたがその子は妊娠しているときに重い障害を持っていることが分かり、医者から中絶を勧められた。けれども、どうしても決断できず、夫がその教会の幼稚園の卒園生だったこともありこの牧師のところに相談に来た。その時にはすでに産む決心をしている様子だったそうだ。そして子どもを産んだ。その子は医者の診断どおり、自分の力では生きることができず、28日間の生涯を閉じた。その後、夫婦は礼拝に出席するようになった。2年後の永眠者記念のときにその婦人がこう語った。「今わたしの体内に新しい命が宿っています。もちろんうれしさがありますが、同時にはじめの子のことが頭をよぎり、心配の余り『どうか5体満足で産まれてきて』と願っている自分に気づき、はっとします。そしてそう願っていることをはじめの子に申し訳ないと思うのです。今私はこの両方の思いの間で揺れています。」この牧師はこれに対してこう結んでいます。「私たちはこの真実な言葉の前で、気休めや分かったような理屈で慰めることをやめて、この夫婦の『心の揺れ』と共に私たちも揺れさせていただこうと決意したのでした。
神が共にいる、ということは私たちが泣いているときには一緒に泣いて、笑っているときには一緒に笑って、悩んでいるときにはいっしょに悩んで、揺れるときに一緒に揺れて、苦しんでいるときには一緒に苦しんでくれているということなのではないか、と思う。
インマヌエル、神、我らと共にいます、それは私たちが神を見つけ、私たちがしっかりと神をつかんでいるからそう言えるのではない。神が私たちのところへわざわざ来てくださったから、そして神が私たちのことをしっかりとつかんでくれているから言えるのだろう。
イエスは私たちのところへ来てくれた。すぐそばにいてくれている。罪にどっぷりつかった、だめな、だらしない間違いだらけの私たちのとこまで来てくれた。そして私たちをしっかりと捕らえつかんでくれている。そうやって私たちと共にいて下さっている。そして私たちとどこまでも共にいて、いっしょに揺れてくれている。
イスラエルの人たちは崩されたままの神殿を前にしてこの神の約束を聞いた。そしてやがて神殿は再建されていった。私たちもそれぞれに厳しい現実を前にしつつ、この神の言葉、神の約束を聞いている。