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礼拝メッセージより
説教題:「御言葉を」 2003年1月5日
聖書:ルカによる福音書 4章1-13節
誘惑
イエスはバプテスマのあと、すぐに荒野で40日間、断食してサタンの誘惑にあった、そのとき「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と書いてある、「あなたの神である主を試してはならない」と書いてある、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある、と言って旧約聖書の言葉で答えた、ということがマタイによる福音書と、マルコによる福音書に書いてある。ところで「人はパンだけで生きるものではない」というところは、マタイもルカも4:4で、しかもマタイは4P、とある有名な牧師が嬉しそうに言っていた。
イエスさまが荒れ野に行ったのは、霊によって引き回され、と書いている。聖霊によってということなのだろうが実際はどういうことなのかよくわからない。けれどもとにかく自分から好きで誘惑を受けたわけではないようだ。
イエスの生涯は初めから、生まれた時から、きびしいものだった。生まれた所は家畜小屋、そして生まれてすぐに命の危険にさらされエジプトに逃げ延びてやっと助かった。イエスの生涯は決して順風満帆ではなかった。キリストでありながら、神々しく輝く生涯というわけではなかった。
荒れ野
生まれてすぐもきびしかった。そして公生涯と言われる、30才位からの公の活動の最初が、荒れ野の誘惑だった。
荒れ野とは、何もないところ、大きな岩がごろごろ、草木もほとんどない、命のない所。イスラエルには町の郊外に出るとすぐに荒れ野があるそうだ。そして荒れ野とは、神から最も遠い所の象徴でもあった。神に敵対する勢力の済むところ。悪魔、サタンのいるところ。神の力が最も及ばないところ。そんな荒れ野にイエスは送りだされた。神殿ではなく、荒れ野に追いやられた。ヨハネからバプテスマを受けて、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声を聞いたすぐ後に、そんな荒れ野を引き回されたというのだ。
けれどもそれは、誰もが神がいないと思っている、誰もが一番神から遠いと思っているその荒れ野にも神の力は及んでいること、神の力が及ばない所はどこにもないことを証明するための出来事でもあったのだろう。
悪魔の誘惑
悪魔の誘惑は空腹の時に石にパンになるように命じて見よ、というものだった。またわたしを拝めば国々の権力と繁栄を全部与えるというもの、そして神殿の屋根の端から飛び降りてみよ、神の子らなら天使たちが支えるだろうというものだった。
神の子ならば石をパンに変えることも、全世界の権威を持つことも、屋根から無事に飛び降りることもできるはずだ、やってみろ、神の子なんだからやってみろ、それでも神の子か、それが悪魔の誘惑だったようだ。
しかしそれに対してイエスは、いずれに対しても聖書の言葉を用いて返答している。「人はパンだけで生きる者ではない」というのは申命記8:3。「あなたの神である主を拝み、ただ主にのみ仕えよ」は申命記6:13、「あなたの神である主を試してはならない」は申命記6:16。
神の子であることを高らかに宣言し、その力を見せつけてみろというのだ悪魔の誘惑だった。けれどもイエスはその悪魔の誘惑にはのらなかった。
悪魔の誘惑とは、悪魔と言われる存在が現れて、これしてみろ、してみろと言うわけではないだろう。それならそれほど恐くもない。それよりも心の中にこうしたいという思いが芽生えてくるような、腹が減ってきた時に、石をパンにして食べたいと願うようなそんな思いにさせる、それが悪魔の誘惑ではないかと思う。目の前に悪魔が現れれば身構えることもできるが、心の中にいろんな思いが芽生えてくるとなるとそれを抑えるのはとても難しい。しかもそれが自分の虚栄心を満足させるような思いであれば尚更だろう。
自分がいかにいろんなことができるか、いかにいろんなことを知っているか、そんなことをみんなに見せつけたいと私たちも思っている。腹が減ったときには奇跡を起こして食べ物を与えて欲しいと思い、権力を持ってみんなを支配して何でも思い通りにできたらどんなにいいだろうかと思っている。誰もまねできないすごいことができたらいいのにと願ったりしている。そんな誘惑に私たちもいつも遭っているような気がする。石をパンに変えようと思う人はあまりいないだろうが、教会でも自分の知っていることの話しになると、これはこうなのだ、これはこうするものだ、と自分一人だけが自慢げに喋ってしまうなんてこともよくあることだろう。教会学校でも、相手に聖書のことを伝えるよりも、自分がいかにいろんなことを知っているか、それも聖書のことや神のことならまだいいけれども、社会的な常識をどれほど知っているか、自分が社会の中でどれほど立派にやってきたかを一所懸命に喋ってしまっていたなんてこともあるだろう。
御言葉
イエスは誘惑に対して御言葉で答えた。聖書の言葉で答えた。神である主を拝み、ただ主に仕えよ、という御言葉を語った。私たちはただ主に仕えているだろうか。最近よく思うことは私たちは主に仕えるよりも他のものに仕えていることが多いのではないかということだ。たとえばお金。福音を伝えていくことを私たちは神から託されている。けれどもそれよりも私たちは得てしてお金のことを優先する。伝道をどうやっていくかよりも先に、お金がないからどうにもならない、という思いの方が先に来ているのではないか。主に仕えるよりもお金に仕えている、支配されているのが私たちの現状でもあるのかもしれない。会計報告を見ては嘆いてばかりいる牧師が一番お金に仕えているのかもしれないが。
もちろんお金がないと大変であるし、食べるものがないと生きてはいけないというのも事実だ。けれどもそんなのは当たり前だろう、と思うときにいつしかすっかり御言葉すっぱり抜け落ちてしまう、それが悪魔の誘惑なのではないかと思う。お金のない中で、力のない中で、能力のない中で、食べるものもろくにない中でその中に御言葉は私たちに語りかけているのだ。ただ主に仕えよ、人はパンだけで生きる者ではない、と。
イエスは奇跡的なことを何一つしないで、ただ神の言葉を聞いていった。それはもうずっと前からみんなが聞かされてきた言葉だった。空腹のまっただ中でイエスは御言葉によって生きていった。御言葉あったからこそその誘惑を堪え忍ぶことができたということかもしれない。
私たちにも御言葉は与えられている。もうすでに私たちの手許にある。いろんな苦しい現状がある。いろんな大変な状況の中に生きている。神を信じているのにどうしてこんなことになるのか、という気持ちがある。けれどもそんな中で御言葉は私たちに語りかけている。その言葉を私たちもしっかりと聞いていこう。イエスが聞いたように。