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礼拝メッセージより
説教題:「新しい天と新しい地」 2002年12月15日
聖書:イザヤ書 65章17節-25節
創造
新しい天と新しい地を創造する、と言う。何もかも新しくするという。ただ外側だけ、見栄えだけ変えるのではなく土台から、根っこからまるっきり変えてしまうということだ。ただ形だけを変えるのでもなく、全てを新しくするという。
初めのもの
そして初めからのことを思い起こす者はない、という。かつての苦しみ、かつての嘆き、かつての絶望感、それらを思い起こすことがない、だれの心にもそれが上ることがない、それほどまで徹底的に新しい天と新しい地を創造するというのだ。
現実
この第三イザヤの言葉を聞いた当時のイスラエルは、バビロニア帝国を滅ぼしたペルシャという国によって解放されてバビロン補囚から帰ってきた。ペルシャは大きな領土を持った国で、それぞれの民族に寛大でそれぞれの宗教を尊重したそうだ。イスラエルの神殿を再建することも認め支援した。宗教的にはそんな自治が認められた。けれども再建しようとしたけれどもイスラエルの復興はなかなか進まなかったそうだ。そんな時にペルシャの王の後継者争いが起こり、ペルシャの支配が少し弱くなったことがあった。それに乗じて独立しようと言う運動が起こったが結局失敗してしまったそうだ。補囚から帰ってきたとはいえ、ずっと他の国の支配の下にあり、復興もうまくいかず、独立運動も挫折してしまい、バビロンから帰ってくる当初に持っていた希望も失いかけていたそんな時期だったようだ。
夢を持っては敗れ、また次の夢を持っては敗れの連続だったのではないかと思う。苦しいことの連続、こんどこそ明るい未来が来る、と期待しても裏切られ続ける、そんなことの繰り返しだと疲れ果ててしまうだろう。バビロニア軍に敗れて以来50年以上そんな状態が続いているのだ。
見えるもの
バビロンへ連れて行かれて後のイスラエルの人たちは嘆きがイザヤ書に書かれている。
「イザヤ40:27 ヤコブよ、なぜ言うのか/イスラエルよ、なぜ断言するのか/わたしの道は主に隠されている、と/わたしの裁きは神に忘れられた、と。」
「イザヤ49:14 シオンは言う。主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた、と。」
「詩編89:47 いつまで、主よ、隠れておられるのですか。御怒りは永遠に火と燃え続けるのですか。」
しかしそんな民に預言者は神の言葉を伝える。
「 イザヤ58:9 あなたが呼べば主は答え/あなたが叫べば/「わたしはここにいる」と言われる。」
「イザヤ65:24 彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え/まだ語りかけている間に、聞き届ける。」
何をやってもうまくいかない、何もかも片づかない、整えられない、目に見える現実はそんなものだった。あそこがこうなれば、ここがこうなればすっきりする、心から喜べる、けれどもそんな期待はみんな裏切られてしまう、そんな時一体神は私を見捨てたのか、私たちを忘れたのか、神はどこにいるのか、いつまで怒っているのかと思ってしまう。こんなダメな民族のことを神はもう見捨てたに違いない。もうどうしようもないのだ、ずっと苦しみが続くのだ、そんな諦めの気持ちもあったのだろう。
けれどもイザヤ書は、あなたが呼べば主は答える、あなたが叫べば、わたしはここにいると言われる、というのだ。決して忘れているわけでも見捨てたわけでもない、あなたの声はしっかりと聞こえていると言われているようだ。そしてさらには、彼らが呼びかけるより先にわたしは答え、まだ語りかけている間に聞き届けるとまでいうのだ。母親が大事な子どものことが何でもわかるように、子どもが言う前に子どもの欲しいものがわかるように、神はあなたが語る前からあなたのことは分かっているという。
そんな神と民とのつながりがあること、それは実は一番大事なことなのだと思う。現実は国の復興も神殿の再建も思うように進まない、目に見える事柄はなかなか解決されない、そんなひっかかりをずっと引きずっている、それは大変辛いことでもある。けれどもそんな目に見える大変なことの中で、目に見えない神とのつながりはしっかりとあるのだと預言者は語っている。そしてそれは何よりも大事なことなのだと思う。それこそが一番大事なことなのだと思う。
見える現実は厳しい。教会の現状も厳しい。人も金も少ない増えない、後継者が育たない、愛がない、、、。一人ひとりの現実も厳しい。年を取ると身体も弱ってくる。いろんな問題が次から次から起こってくる。まるで打ちのめされそうな現実が待っている。それが解決できれば、この問題がなくなれば、過ぎ去ってくれれば何とかなるに違いないと期待する。
けれどもなかなかそう思うようにいかない。神に祈っても願ってもなかなか思い通りにならない。そしてそんな厳しい現実の中で、一体神はどこにいるのか、神は私を見捨てたのか、忘れてしまったのかと思ってしまう。
けれども神はきっと私たちのそんな声も聞いてくれているだろう。そしてそんな私たちの苦しみも、嘆きも、私たちが語る前からきっと分かっているのだろう。苦しみを分かってくれる、受け止めてくれる、これほど嬉しいことはないのではないかと思う。そしてそんな神との目に見えないつながりがあること、それが私たちにとっても実は一番大事なことなのだと思う。目の前の厳しい現実だけに目を奪われるのではなく、目に見えない神との関係をしっかりと見つめていくように、そして神はあなたのことをしっかりと見つめ、あなたの声を、あなたの思いをしっかりと聞いてくれているのだということを預言者は語っている。
自分のことを、自分の思いを分かってくれると言うことはとてもうれしいことだ。そしてそれは案外問題が解決することと同じくらい、あるいはもっと嬉しいことかもしれないと思う。
去年の地震の後いろんな人からいろんな声を聞いた。大丈夫ですよ、とか頑張ってくださいとか、しっかりしてとかいうことをよく言われたが、一番心に残っているのは、ある牧師が「きっと誰にも言えない苦しさがあるんだろう。神さまにしか分からない苦しさがあるんだろう、神さまに向かって泣けばいい、泣きつけばいい」とそんな言葉だった。これを聞いたときはそんなに分かってくれる人がいるのかと思って本当に泣きそうになった。
新しい会堂ができてからもいろんなことを言われた。いろんな人から、おめでとうございます、と言われて、でも本当はあまりうれしくなかった。献堂式の時にも何人かの人がいい会堂ができてこれからですね、なんて言われることは本当は結構しんどかった。励まそうとしているのだということはよく分かったけれど、実際自分の気持ちとしては、出来て良かったうれしいというよりやっと出来てやっと終わったかなと思ってたから、おめでとうと言われても嬉しくなかった。けれども少し前に用事があってある牧師と電話で話していたときに、その牧師は、会堂を建てるだけでも大変なのに、地震の被害を受けて尚更大変だっただろう、しっかり休んだ方がいい、まわりはいろんなことを言うかもしれないがなんと言われようと休まないといけない、というようなことを言っていた。
苦しさや辛さを分かってくれること、分かってくれているんだということを知ることってのは実は最高の喜びなのかもしれないと思う。何も言わないで肩をもんでくれたり、休みなさいと言ってくれたりすることが殊の外嬉しかった。そしてそれが一番の励ましになるように思う。どんどんやれとどんどん動けとはっぱをかけられることで動ける時もあるのかもしれないが、しんどいときには自分の声を嘆きを聞いてくれる、自分の苦しさを分かってくれることが一番の励ましになるのだと思う。
見えない神の支え、見えないところで私たちの苦しさも辛さも分かってくれている神の支えを知ることで私たちは慰められ励まされる。そしてそうすることで私たち自身が立ち上がる力が与えられるのだと思う。厳しい現実の中にしっかりと立つ力が与えられる。
神はきっとそんな方法で私たちを支えてくれているのだと思う。奇跡を起こして目に見える世界を何もかも変えてしまうというような方法ではなく、私たち自身を慰め励ますことで私たちをこの厳しい世界の中で生きる者と変えるのだと思う。私たち自身が変われば、結果的に全世界は変わってしまう。後を見つめていた者が前を見るようになれば世界はまるで違って見える、そんな風に私たちが変わることは世界が変わることでもあるのだと思う。
神が私たちの声を聞き、私たちの嘆きを知り、私たちの全てを支えてくれていることを知ること、それは世界を変えることにも等しいことだろう。天と地をもういちど創造するに等しいことだろう。
コリントの信徒への手紙U「4:18 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」