前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
説教題:「嘆きから叫びへ」 2002年12月8日
聖書:イザヤ書 61章1-11節
第三イザヤ
イザヤ書の56-66章は、名前の知られていない預言者の書とされ、一般 に第三イザヤと言われている。彼が活動したのは、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放されて、故国エルサレムに戻り、そしてバビロニア軍によって破壊されていた神殿を再建した時代。
第三イザヤは、多分バビロン捕囚から帰還した者の一人で、エルサレム神殿が再建される時に預言者として召され、活動した。紀元前539年に、ペルシア王キュロスがバビロニア帝国を倒したとき、バビロンに50年間捕囚になっていたイスラエルの民は、解放され、故国エルサレムに帰ることが許された。そして彼らは、故国エルサレムに帰ったら、まず神の住まいであるエルサレム神殿を再建しようと決心した。しかし、いざエルサレムに帰ると、その荒廃ぶりは予想以上に激しく、全く意気消沈してしまった。かつて自分たちが住んでいた家、かつて自分たちが礼拝していた神殿が以前の姿を留めていないほど荒廃しきっていたの。
4節には、そのようなエルサレムの荒廃した状況が暗示されている。
待ちに待った帰還であったのだろうと思う。けれどもその時の故郷はすっかり荒廃していたというのだ。50年ぶりに帰ってくるまでには、イスラエルの状況も人々もすっかり変わっていた。バビロンへ連れて行かれた者と、イスラエルに残った者との軋轢もあったことだろう。けれども彼らはなんとか神殿を再建しようとする。しかしその再建もすんなりいったわけではなかったようだ。周りの民族の妨害もあったようだ。そしてその再建は中断してしまう。
やっとイスラエルへ帰り、エルサレムの神殿を再建することになりこれからと言うときに、その神殿の再建も中断してしまう。イスラエルへ帰るときにはそれなりの希望を期待を持っていたことだろう。しかし現実にはその希望をうち砕くようなことが起こっている。大きな希望を持っていればいるだけその分きっと失望も大きかったことだろう。なにもかもうまくいかない、これからもうまくいきそうにもない、まるで今の日本のような、いつまでたってもよくならない、どこにも明るい未来が見えない、どこに希望を持てばいいのか分からないような有り様だったのかもしれない。あるいは今の教会も同じようなことかもしれない。若者や子どもが教会からいなくなってしまって、未来を託す者がいなくなってしまって、どうしてそうなってしまったのかも分からない、そしてそのことをこれからどうしたらいいのかも分からない、そんな風に未来に希望を持つことができない状況だったのかもしれない。そしてこの第三イザヤはそんな時代に神の言葉を取り次いだ預言者だった。
召命
61章は第三イザヤが何のために、誰のために神に選ばれ神の言葉を取り次ぐ者となったかということが書かれている。「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人によい知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。」とあるとおりだ。
彼は貧しい人によい知らせを伝えるために選ばれたという。良い知らせつまり福音は国の指導者や権力者ではなく貧しく苦しめられている人に伝えられるというのだ。権力もない、能力もない、何かをするような自信もない、そして未来に希望を持つことも出来なくなってしまっているそんな者に福音は伝えられるというのだ。そしてその福音は、打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人に自由を、つながれている人には解放を告知するという。現実の厳しさに、何もかもうまくいかないことで打ちのめされている者の心を包むということだろう。そして捕らわれている者を解放するという。権力者によって捕らえられていた者、いろんなしがらみに捕らわれている者も解放される、福音にはきっとそんな社会を変革する力があるのだろう。
逆転
また3節では、「シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて讃美の衣をまとわせる」と言われている。人間的に見れば悪いことしか起きようがない、まったく未来に希望が持てない、そんな状態を神は完全に180°転換してしまうというのだ。
目の前の荒れ果てた神殿やエルサレムを見て嘆いている人々がいる。イスラエルでは何か深い悲しみの出来事が起こると、灰を頭からかぶる習慣があったそうだ。例えば、肉親が死んだときとか、何か大きな天災に遭ったときとか、戦争に巻き込まれたときとか、疫病がはやったときなど。そのようなとき、人々は断食をし、粗末な服を着て、広場に行き、灰を頭からかぶった。しかしその灰を冠に代えるというのだ。悲しみの灰を喜びの栄光の冠に代えるというのだ。そして嘆きを喜びに、暗い心を讃美に代えるというのだ。神が嘆いている人に喜びと讃美を与えるというのだ。そこから人々は未来に希望を持つようになる、そして「彼らは主が輝きを現すために植えられた正義の樫の木と呼ばれる」ようになるという。未来に希望を持つようにされた者は、自分の幸福に満足するだけで終わるのではなく、正義の樫の木として他の者に対して、外の世界に対して神を証していく者となっていくと言われている。
希望の主
どうしてこの第三イザヤと呼ばれる預言者はそんなことを言うことができたのか。それは神に希望を持っているからだ。希望の元を神においている。神の約束があるからこそ希望があるという。
私たちは現実に目を向ける。目に見える現実、その現実の厳しさに目を奪われている。神の言葉よりも目に見える現実に捕らわれてしまう。そんなことが多い。そして嘆くことが多い。教会でも礼拝の人数が少なくなったと言って嘆き、献金が減ったと言って嘆き、愛がないといって嘆き、ついには目に見えるあらゆることを嘆きすっかり希望をなくしてしまっている。イスラエルの現実も似たところがあったのだろう。やっと地元に帰ったと思ったところが街も神殿も荒れ果て、どうにか再建しようとすると邪魔され思うようにいかない。見えるものは嘆きの種ばかりだったのだろう。けれどもそんな時に預言者は神が嘆きを喜びに代えてくれると語ったのだ。
11節には「大地が草の芽を萌えいでさせ/園が蒔かれた種を芽生えさせるように/主なる神はすべての民の前で/恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。」
神がそうしてくれるのは、大地から草が生えてくるように、蒔いた種が芽生えるように確実なことなのだと言うのだ。冬になると草も枯れて表面的には何もなくなってしまう。けれども見えるところには何もなくても春になれば確実に芽が出てくる、そのように神の約束は確実にやってくるというのだ。私たちにはまだ見えていなくても、神は確実にそうして下さるというのだ。今の嘆きを喜びに代えてくださるというのだ。
ルカ4章16-21節
4:16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。 4:17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。 4:18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、 4:19 主の恵みの年を告げるためである。」 4:20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。 4:21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。 4:22 皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」 4:23 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」 4:24 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。
イエスがナザレの会堂で読んだ聖書がちょうどイザヤの61章の最初のところであったと書かれている。イエスはイザヤが語った神の約束が今日実現した、と語った。けれども地元であるナザレの人たちにはイエスの語る言葉をそのまま受け取ることができなかったというのだ。あいつはヨセフの子じゃないか、という思いがあったからだと福音者には書かれている。イエスのことは何でも知っている、という気持ちが強かったために逆にイエスの語る言葉を聞くことができなかった。
私たちも現実の厳しさをよく知っている。お金がないとどんなに大変かも良く知っている。自分ひとりが何かを言ったからといって社会はそう簡単には変わらないことも知っている。そしてそんないろんなことを知っていることで、社会とはこういうものだという風にあらゆることを知っていることで、却って聖書の語る言葉を信じることができないということも多いのではないか。
あなた達がこの福音を伝えるのだ、と私たちは、私たちの教会は言われている。けれども私たちは、どうせ私たちの教会は小さい、高齢者が多い、力がない、賜物がないということで、神の務めを果たさないで過ごしてきているのではないかと思う。いつもあらゆることを嘆いてばかりいる。希望を持てないでいる。そして神の言葉をすっかり聞かなくなってしまっている、のかもしれない。
社会がクリスマス、クリスマスと騒いでいると言うのを聞いて、本物のクリスマスは教会なのだ、と言うことを教会の中で聞くこともある。クリスマスのことは一番分かっている、神さまのことは一番分かっていると思いつつ案外その神の言葉を真剣に聞けていないのが教会なのかもしれないと思う。目に見えることに捕らわれて、嘆いているばかりだとしたら、そして未来に希望を持てないとしたら、それはイエスの話を聞いたときのナザレの人と似ている。
教会が、私たちがまず一番真剣に神の言葉を聞いていかねばと思う。嘆きを希望に代えると言われる神の言葉を私たちはどれほど真剣に聞いているだろうか。嘆く材料は山ほどある。会計報告で繰り越しが減ったのを見るといつも嘆いてしまう。礼拝に来る人が少ないと落ち込んでしまう。けれどもその中で神がその嘆きを喜びに代えると言う言葉をどれほど真剣に聞いているだろうか。
そんな状況の中で神は語りかけておられるに違いない。あなたの嘆きを喜びに代えると。そうすんなり納得出来る言葉ではないだろう。けれどもそんな神の言葉の前にずっと佇んでいたいと思う。そして神の言葉に、神の約束に希望をおいて生きるようになりたいと思う。嘆くような状況を代えることはとても難しい。けれども私たち自身が嘆きから喜びへと代わるならば、それは世界を代えたようなものだ。きっとそこから世界を代えていく力が生まれてくる。
神の言葉に希望をおいていくことできっと自分自身も、そして教会も代わっていくだろうと思う。