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礼拝メッセージより
説教題:「ああ」 2002年10月20日
聖書:エレミヤ書 32章6-25節
時
時はユダの王ゼデキヤの第10年、エブカドレツァルの第18年、エレミヤはユダの王の宮殿にある獄舎に拘留されていた、ということが32章1節に書かれている。その理由は、エレミヤが、エルサレムがバビロンの手に落ちて、ゼデキヤはバビロンの国に連れて行かれる、ということを預言したからだった。そんなことを言われることに気を悪くしたゼデキヤはエレミヤを牢屋に入れてしまったということらしい。そんなことを言われれば腹も立つかなという気もする。けれどもその時はすでにバビロンの軍隊がエルサレムを包囲していたというのだから、現実にはエレミヤの預言の通りにことは運んでいるという状況だった。
土地
そんな時に主の言葉がわたしに臨んだ、と書かれている。一体これは誰に対して言っている言葉なのかという気もするが。とにかくそこで神がエレミヤにいとこのハナムエルの畑を買ってくれと言いにくるから買い取れと示されたというのだ。もうすぐユダは滅ぼされ、占領され、何もかも取り上げられようとしている。今頃土地を買ってもそれを占領軍に取り上げられてしまえばそれで終わりである。
エレミヤはその畑を銀17シェケルで買った。17シェケルは約200gだそうだ。そして正式な購入証書を作成したと書かれている。証書を作ったのはいいが、もうすぐそれがただの紙切れになってしまうかもしれない、ただの紙切れになってしまう可能性が高いこんな時期に、神はこの畑を買えというのだ。
当時は貧しくて土地を手放すときには親戚が買うことになっていたそうで、そんな貧しい親戚のためには一肌脱ぐということでもあったのかもしれない。しかしそんな呑気なことを言ってられない状況であるのが現実だ。
祈り
エレミヤは神の命令通りにした。しかしその後彼は神に祈っている。祈らないではいられなかったのだろう。なぜこんな馬鹿げたことを命令するのか。ただ私を貧乏にするためか、なぜこんな無駄なことを命令するのか、そんな気持ちがあったのではないか。
それに対して主が答える。27節には、「見よ、わたしは生きとし生けるものの神、主である。わたしの力の及ばないことが、ひとつでもあるだろうか。」私の力が及ばないことがひとつでもあろうか、と神は言うのだ。あらゆることは私の支配の中にある、ユダの国が滅びることも、そしてやがてまた国が再建されることも、全て私の手の中にあることなのだ、と神は言う。もうすぐ国が滅びる、しかしそれもイスラエルの民が、「わたしに背を向け、顔を向けようとしなかった。わたしは繰り返し教え諭したが、聞こうとせず、戒めを受け入れようとはしなかった。彼らは忌むべき偶像を置いて、わたしの名で呼ばれる神殿を汚し」た、そのために国が滅びようとしている、それは私がそうしているのだ、と主は言う。しかしやがて彼らをここに帰らせ安らかに住まわせる、彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない、と主は言う。
すべては私の計画、私の意志の下に起きている出来事なのだ。国が滅びるのも、そしてやがて再建することも私の計画なのだ。やがてまたこの国で人々が畑を買うようになる、やがてまたこの国を繁栄させる、だから今あなたは畑を買いなさい、やがてまた国が繁栄するという私の約束を、あなたの畑を買うという行為で示しなさい、ということのようだ。
嘆息
エレミヤは神の言葉をただ素直に信じ切っていたのだろうか。ただただ何でも神の言葉だからとバカ正直に信じていたわけではなかっただろう。
エレミヤは神の命令通りに畑を買い、証書を作り、その後に神に問いかけた。祈りの中で問いかけた。その最初のところが、「ああ、主なる神よ」とある。「神さま、あなたの言われたとおりやりました、ハレルヤ」ではなかった。「ああ神よ、今どうしてこんなことをしないといけないのですか、どうしてこんな時に」というのがエレミヤの祈りだった。しかもそれは命令通りにやった後での問いかけだったのだ。神の命令通りにしている、しかしそれでも納得できないものがエレミヤの心の中にくすぶり続けていたのだ。
訳の分からない世の中、訳の分からない命令、不条理、理解できない命令。しかし神の命令に従うしかない、神のことばは成っていく、理解できなくても承服できなくても神の言葉は成っていく。それに従うしかない。なんとばかなことをしているのか、なんと愚かなことをしているのか、そんな思いを抱きつつもエレミヤはそれに従うしかないことを知っている。自分にはその道しか残されてはいないのだ。しかしだからといって何もかも納得できて、疑いも恐れも全くない、なんてことはあまりない。エレミヤには疑いと恐れが渦巻いていたのだと思う。だからこそここで、ああ、という嘆息のことばを吐いたのではないかと思う。
神の命令、それは約束に基づく命令であるが、その命令と現実との狭間でエレミヤは苦悶している。目に見えない神の約束、神の計画と、目に見える現実に起きている出来事の狭間でエレミヤは苦しんでいる。それは私たちに共通する苦しみでもあるだろう。私たちも日々そんな、ああ神よどうしてこんなことを、と問いかけることの連続である。
従うこと
先週やっと献堂式が終わった。献堂式なんてしないといけないのか、と思っていた。実際そう言って嘆いたこともある。しかしよく建ったものだと思った。新会堂を建てようとよく決心したものだと思う。最初はお金もないのにと出来るわけがないと思っていた。けれどもだんだんと神の計画は新会堂を建てるということなのではないかという気がしてきた。けれども現実にはほとんどお金もない。誰かがいっぱい出してくれたらという気もあったけれどもそんな保障もない。けれども建てることが神の命令、神の計画であるならばそれに従うしかないと思うようになってきた。その後は皆さん知っているとおり。
神の計画と現実の厳しい状況の中で私たちも苦しんでいる。神が、大丈夫だ心配するなと言われるのと、銀行の通帳に充分お金が入っているのとどちらが安心できるだろうか。必要な物は神が備えてくれると信じて神の命令通りにするのか、それとも充分お金があれば神の命令通りにするのか、お金ができてから神の命令通りにするのかどっちなのだと問われているのかもしれない。
私たちは信仰を持っている、私たちは真の神を信じている、私たちの信仰はその辺の偶像崇拝とは違うのだ、と教会ではよく言う。けれども私たちの信仰は現実の苦しい状況に左右される、通帳の残高に左右される信仰でしかないのかもしれない。神の命令に聞くよりも、神の言葉に聞くよりも、真っ先に通帳に聞くような信仰でしかないのかもしれない。残高が少なければ何も出来ない信仰でしかないのかもしれない。
大口の献金があったから会堂を建てることができた、というのも現実だ。本当に感謝なことだ。しかし私たちが会堂を建てると決心したのは献金が充分集まってからではない。それよりもまず神の御心を聞いてきた、その結果会堂を建てることにした、そして献金はあとからついてきた。そう言う人と出会わせて下さっているのも神の導きなのだと思う。あの人が献金してくれたから、それはその通りであるが、それだけではなく、その人と出会わせてくれた、献金しようと言う思いを与えてくれた、それは神の導きであったのだと思う。そんな神の導き、神の計画を見失っているとしたら、私たちこそただ現実しか見ない、ただ財布の中身だけを信じている偶像礼拝者となってしまうだろう。もしあの時私たちの持っているお金の中で会堂を建てようとしてもこんな会堂が建つことはなかっただろう。
しかしもちろん神の命令に従うことは苦しいことでもある。エレミヤがそうであったようにそれは一大決心をしなければいけないこともある。目に見える現実と、目に見える財布の中身と通帳の残高と、神の命令、神の計画の狭間で私たちもうめくしかないときもある。ああ神よ、どうしてそのようなことをしないといけないのかと苦闘して祈るしかないこともある。けれども私たちの信仰とはそうやって神の御心を求めていく、聞いていく信仰なのだと思う。現実との狭間の中で揺さぶられながら神の声を聞いていく、それが私たちの信仰だろう。目に見えない所で神が私たちの全てを支えてくれている、だからその神の声を聞いていくのだ。神の声に従っていくのだ。
神が全てを支えてくれている、だから私たちは全てを神に任せる、全て神に差し出す、そしてその具体的な行為が献金だろと思う。だから献金はただ単に神への感謝のしるしではなくて、私たち自身を、私たちの全てを神に差し出すということの現れ、献身という言い方をするが、その現れなのだ。嬉しいことがあったから感謝のしるしに少しお礼しますというのが献金ではない。神が私たちのすべてを支えてくれている、だから私たちのすべてを献げます、私たち自身を献げます、それが献金の意味だ。だから献金の祈りで、僅かなものを献げましたと祈って欲しくない。謙遜して言われているのであろうが、本当は僅かなものではなく、私たちの全て、自分自身を献げるのが献金の意味だと思う。神が私たちの全てを支えてくれている、だからその神に全てを献げる、それが献金だと思う。
ああ、と嘆きながら、苦悶しながら、私たちも神の声を聞いていきたいと思う。現実の苦しい状況の中で、神の声を聞いていきたいと思う。神は見えないところでしっかりと私たちを支えてくれているのだ。神はすべてを支えてくれているのだ。だから苦しい現実の状況だけを見るのではなく、財布の中身だけを見るのではなく、神の御心を神の計画をしっかりと見つめていきたいと思う。そして私たちがなすべきことをしっかりと聞いていきたいと思う。