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礼拝メッセージより
説教題:「新しい契約」 2002年10月13日
聖書:エレミヤ書 31章31-34節
契約って?
契約ってなんだろう。
結婚式では生涯夫婦となることを誓いますとか約束しますとか言うけれど。その誓いを破るとどうなるだろうか。当然その結婚は破綻する。二人の関係は破綻してしまう。契約不履行、ということになる。
浮気は男の甲斐性、なんて威張っている人もいるみたいだが。
古い契約
かつてエジプトから導き出した時に結んだ契約があった。
エジプトで奴隷として働いていた所を救い出され、葦の海を渡ってきたときの契約。自分たちを救い出された神との契約。
出エジプト記24章
3 モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。
4 モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。
5 彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。
6 モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、
7 契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、
8 モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」
彼らは自分たちを救い出した偉大な神にずっと従っていこうと思っていただろう。
時代
エレミヤの時代、彼らの国は北の王国イスラエルと南の王国ユダに別れ、北のイスラエルはすでに滅亡し、南のユダもバビロニアの脅威にさらされており、やがて南のユダも滅ぼされ、指導者たちはバビロンへ補囚されていくという時だった。
そのころの王はかつての契約を守らず、自分たちの先祖をエジプトから導き出した神ではない別の神々、聖書で言う偶像を礼拝していた。中には、偶像ではない聖書の神を信じる王もいたが、そんな王も少なく、やがて国は滅びに向かっていった。
エレミヤはその国の滅びを神から、みんなに知らせるようにと言われ、そのことを王や民に告げた。国が滅びるのは真の神に従わなかったため、つまり偶像を礼拝したため、また貧しい者を顧みなかったために起こったことだ、だから悔い改めて真の神を礼拝しよう、真の神に従おうと告げた。
しかし、自分たちの国が滅びるわけがない、自分たちは特別な民族なんだからどこにも負けない、とかバビロンからだってすぐに帰ってこれるだ、というような者たちからエレミヤは迫害を受けることになった。聞く耳を持たない民の指導者たちは彼を抹殺しようとし、親しい友は彼を裏切り、同郷の者たちも暗殺を企てた。
そんな中で、エレミヤはバビロンへ連れて行かれた者たちへは、このことは神がそうしたのであり、70年は帰れない、これは自分たちが神に背いたために起こったことではある、がしかしこれも神の計画であり神がもう見捨ててしまったというわけではない、だからそこでしっかり生活しなさいと勧めた。
新しい契約
そして今日の所では、契約を守らなかった民に対して、神は新しい契約を結ぶという。契約を守らない者のことなど知らない、とは言わない。
契約が破棄されたということは両方の関係が絶たれるということだ。おまえと俺とは関係ない、ということになる。神と人としての関係が崩れたならば、そこからは神と人との関係ではなくなるということだ。
神と民
神と人という関係の中で私たちは生きている。神なしで生きていけるのか。親がなくても子が生きていけるのかということと似ているように思う。子はしだいに親から離れていく。しかし自分を全面的に受け入れてくれる、受け止めてくれる、愛してくれる、そんな関係があることで子どもは安心して親から自立していくそうだ。何かが出来るからとか、何かが優れているからとか、そんな条件付きではなく、無条件にただ親と子であるという関係があるから、自分の子どもだからというだけで全面的に受け入れてくれる、そんな親を持っている子どもは安心して生活し、自然と自立するそうだ。
神と人との関係も似ているように思う。神から自立ということはないみたいだが。人にとって自分を全面的に受け止めてくれる神を持っている、知っているということはとても嬉しいことだと思う。神は私たちを根底から支えている硬い岩のようなものだろう。その岩の上で私たちは支えられて生きていく。
そんな神と人との関係を保つために、神はこれこれこうしなさい、と掟、律法を与えられたのだろうと思う。そしてイスラエルの民たちはその律法を守ります、と誓った。神と民との関係をなくさないために。
しかしそんな神との約束をイスラエルの民は破ってしまった。確かな岩の上から降りてしまった。落ちたのかな。
胸の中
だがしかし神はそんな民に向かって新しい契約を結ぼうという。新しい掟、律法を与えるという。岩の上から落ちないためだったけれど守れなかったかつての契約を、どうして守れないんだ、ちゃんと守れ、守れない奴はこらしめてやるというふうに、守れない律法をもう一度押しつけてくるのではなく、新たな契約を結ぶ日が来るというのだ。
新しい律法を胸の中に記す。
「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」と言う。神と民、神と人という関係ができる。それが新しい契約であるという。その新しい関係を崩さないための律法を神は心に記すというのだ。いつどんな時にもその律法を私たちが忘れることがないように、ということだろう。私たちの生きることすべてに神が関わっておられるからだ。私たちの存在の根底を神が支えておられるからだ。
そしてその新しい契約が、イエス・キリストにおいて結ばれたと私たちは信じている。イエス・キリストはルカの福音書22:20で「食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」と言われている。イエス・キリストの十字架の死によってこの新しい契約が成立したと考える。
ゆるし
そして主なる神は、「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」という。イエス・キリストの十字架の死によって私たちの罪は赦されている。そして新しい神と人との関係を私たちは持つことが出来るようになっている。
愛
神は、民との関係が破れた後、尚もその関係を持とうとされた。自分との関係を自ら放棄してしまうような人間、助けて貰っておきながらしばらくするとすっかり忘れてしまうようなそんな人間との関係を、それでも神はもう一度持とうとされた。それほどに人に関わろうとされているようだ。人は神との関係なしでは生きていけないということだろう。それほどに人を愛しているということだろう。
だから新しく心に記された律法に、神の言葉に聞いて従っていきたいと思う。神の民とされている者として、神に支えら、愛され、赦され、生かされている者として、そのことを喜びながら、神の声に聞いていきたいと願うものである。はい。