前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
説教題:「約束」 2002年10月6日
聖書:エレミヤ書 30章1-11節
苦しみ
紀元前6世紀にイスラエル人はバビロニアに滅ぼされ、多くの者が首都であるバビロンに連れて行かれる。このバビロン補囚はイスラエルの人たちにとっては苦しい出来事であった。自分たちが外国に捕虜として連れて行かれた。そしてその国では外国人として扱われていたことだろう。長い間にはその土地で成功する者も中にはいたかもしれないが、しかし多くのイスラエル人にとっては自分たちの国を無くし外国人に支配されるという苦しい時期だった。
またイスラエル人にとっては屈辱の時でもあったのだろう。自分たちの神である主、その主は自分たちの先祖をエジプトから導き出し、カナンへと導かれた主である。そしてイスラエル人たちはその主から選ばれた民だったのだ。主に守られ愛されていた民であったはずであった。しかしその主の神殿も破壊され、国もなくなってしまったのだ。自分たちこそ神に選ばれた特別の民であると自負していたであろうそのイスラエルが、現実には他国に支配され、神殿も破壊されてしまっていた。そんな屈辱の時代でもあった。
エレミヤ
エレミヤはそんなバビロン補囚の時期に預言者として活動した。すでに北王国のイスラエルがアッシリアに滅ぼされてから100年ほどたち、やがて南王国のユダも滅亡するという時期であった。そしてエレミヤはそのユダがやがて滅びるという預言をしてきた。エレミヤ書の2章から6章にはユダの罪と審判、12から20章には滅びの預言、そして26から28章にはエルサレム滅亡の預言がある。
もうすぐ自分たちの国が滅びるということを預言するのは大変なことだっただろう。縁起でもない、なんでそんなことを言うのかと周りからのけ者にされたか、変人扱いされたかもしれない。そして実際エレミヤは周りから孤立して、随分孤独であったそうだ。
慰め
しかしそのエレミヤが30章では一転して救いを語る。滅びの後に救いを約束する。それはもうまさにエルサレムが滅ぼされようかというその時だった。もう滅ぼされてしまって先がない、希望もなにもない、絶望するしかない、そんな時にエレミヤは神の救いを語る。
かつてはダビデが国を治め、立派な神殿も建ち、そんな中でユダヤ人たちは自分たちの国が安泰であると思っていたことだろう。立派な神殿を目にして、これこそが自分たちの国の支え、自分たちの信仰の支えの保障であると思っていたのだろう。神殿があることで、そこで犠牲を捧げていることで、神の守りが永遠にあるというような安心感もあったのかもしれない。
しかしそんな目に見えるものが少しずつ崩されていき、そしてついには何もなくなってしまう。そして目に見える保障が崩されることで初めて目に見えない、本当の保障が露わにされていく、それがバビロン補囚ということであったのかもしれない。
神殿が見えなくなることで初めて神を見ることができ、神殿で犠牲を捧げることができなくなることで初めて自分の信仰を考え直すことができるようになったということかもしれない。
裁きと救い
裁き主である神が救いを約束する。裁き主であるからこそその救いは確かなものである。裁く力と権威のある者であるからこそ、その赦しは本物である。
何かの罪に問われたときに、一般の人にいいよいいよと言われても何の意味もない。一般人に悪くないと言われても裁判になると有罪になってしまうかもしれない。裁判所で無罪だと宣告されて初めて罪のない者とされる。本当の赦しは裁くことの出来る者、裁く力のある者でないとできない。
罪の赦しも、罪を罰する力と権威のある者から赦されたと言われることで初めて赦される。
それまでイスラエルの裁きを語ってきた神が赦しを語る。神はイスラエルをただ罰することが目的ではないらしい。イスラエルの罪を示し裁く。それが国が滅ぼされバビロンに補囚されてしまうということだった。しかし神の計画はただ補囚されて苦しい思いをすることだけで終わるのではなく、そこからもう一度救い出すということも含まれる。
それは神殿という目に見えるものを頼りにしていた信仰から、目に見えない神を頼りにする信仰へと転換させるということでもあったのかもしれない。
苦難を通して本来の真実の信仰へと導く、それが神の救いなのだろうと思う。
イスラエルのにはもちろん裁かれるような罪、間違いがあったのは事実だ。しかしそのイスラエルを神は見捨てることはない。罪は裁く、しかしイスラエル自体を見捨てることはない。裁くことによって、もっと親密な関係を持とうとされているかのようだ。
神は、自分と民との間の隔てとなるものを取り除こうとされているのかもしれない。私たちは神自身を見つめるよりも、他の目に見えるものに縛られてしまう傾向にある。自分がどれほど立派にやってきたか、どれほど忠実に働いてきたか、そんなことにいつも心を奪われている。自分がどうなのか、自分がどれほど業績を上げたか、自分がどれほど正しいか、逆にどれほど駄目か、どれほど何もできないか、そんなことばかり考えてしまう。教会に来ても自分ができるかできないか、自分正しいか間違っているか、自分がいいか駄目か、そんなことばかり考えている。そしていつの間にか神のことが見えなくなってしまっている。
イスラエル人たちも、自分たちには神殿がある、自分は決まった時期に犠牲を捧げている、だから自分たちはいいのだ、自分たちは合格なのだ、そんな風に思っていたようだ。自分がどうなのかということばかりで、いつの間にか神のことがおろそかになり、神の言葉を聞くことがおろそかになっていたのではないかと思う。本当に大事な神を、神の声を次第にないがしろにしてしまっていたのではないか。そしてバビロン補囚という苦しいことを経験することで本当に大事なことを見つめていくようになったのではないかと思う。そして神はしっかりと自分を見つめるように、自分の声を聞くようにとイスラエルの民を見つめ続けていたのだ。
約束
私たちも神を見失うようなことがある。神を見失ってどうしていいかわからなくなり、どこに進んでいけばいいのかわからなくなることがある。しかし神は私たちを決して見捨てはしない。
神はイスラエルを裁かれた。しかしそれはイスラエルを本来の姿に取り戻すための裁きであったのだろう。苦しみのまっただ中で、希望も何もない状況で、神は救いを約束する。
イスラエルは苦しみを通して本来の姿を取り戻してきた。本当に大事なものを見つめ直してきた。苦しみにあっても神が見捨てないことを聞いてきた、そして経験してきた。苦しみを通して神そのものを見つめ、神の言葉を聞いてきた。私たちにも苦しみがある。いろんな失敗もある。けれども神は決して見捨てない。苦しみの中でこそ聞こえる神の言葉がある。私たちもその声を聞いていこう。そして私たちのあるべき姿をそこから見つめていこう。