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礼拝メッセージより
説教題:「どんな時も」 2002年9月29日
聖書:使徒言行録 28章11-31節
ローマ
神の計画の中に生かされているパウロは、嵐に遭い危険な目に遭いながらもローマへと近づいていく。命からがらといったような状況ではあるが、それでも神にしっかりと守られている。
パウロの乗った船は嵐に遭い、マルタ島に流れ着きそこで難破する。危険な冬の航海を決行した結果が船の難破という結果になった。しかし結果的にはかなりローマに近づいた。けれども流石に今回は無理をせず、三ヶ月間マルタ島にいて冬を過ごしたようだ。そしてその後シシリー島を経由していよいよローマへ到着する。
ローマにもイエス・キリストを信じる人たちがいて、パウロを迎えに来たという。彼らはパウロを見て、神に感謝し勇気づけられたという。パウロの姿を見るだけで彼らは勇気づけられたみたいだ。
ローマではパウロは自分のお金で家を借りて自分だけで住むことを許されている。番兵はいたようだが、比較的自由を与えられていたようだ。番兵といっても、パウロを見張るというよりも、大切な囚人であるパウロを守る護衛ということだったのかもしれない。
パウロはどこの土地へ行ったときにもそうしていたようにユダヤ人たちと面会する。集まった同胞たちに向かって口を開いたパウロは、まずは、どうして自分が囚人として鎖につながれることになったのか、そのいきさつを説明する。捕らえられて、ローマ皇帝に上訴することになった経緯について、特に、その上訴が、決して同胞を告発する意図をもってなされたものではない、ということについて弁明する。その上で、パウロは、大変大事なことを語る。
「イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです。」(20節)
パウロは、カイサリアにおいて、アグリッパ王の前でも同じことを語った。
「今、私がここに立って裁判を受けているのは、神が私たちの先祖にお与えになった約束の実現に、望みをかけているからです。私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕え、その約束の実現されることを望んでいます。王よ、私はこの希望を抱いているために、ユダヤ人から訴えられているのです。」(26:6-7)
パウロは、復活されたキリストと出会い、キリストに捕らえられ、劇的な回心の体験を経て、キリストの福音を宣べ伝える者とされた。しかしそれは、かつてパウロが熱心なユダヤ教徒であったときに抱いていた希望と全く違うことを語り始めたということではなかった。いやむしろ、ユダヤ人たちが熱心に求め続けてきた救いの望み、すなわち、救い主メシアの到来と神の国の望みが、イエスというお方において、この地上に実現されていることを宣べ伝えた。ユダヤ人たちが、なおも救い主メシアの到来を待ち続けているただ中で、十字架にかけられて殺されたイエス、ナザレのイエスを指し示して、この方こそ待ち望まれた救い主、メシアであると証しした。かねてから約束されていたメシアが来られた、イエスこそそのメシアである。これこそイスラエルの希望である、イエスによってその希望は実現した、パウロはそう語る。そしてそのことのためにとらわれの身となってしまったというのだ。
ユダヤ人たちは日を改めて多くの同胞を連れてパウロのもとを訪ねてきた。そこでパウロは神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、つまり旧約聖書を引用してイエスについて説得しようとした。
神の国
パウロは神の国について力強く証ししたという。神の国ってなんなのだろう。神の国とか天国とかっていうと、なんとなく死んだ後に行くところというようなイメージを持ってしまいがちではないか。神の国についてある説教者がこんなことを語っている。長いけど。
『パウロが語った福音には、二つの焦点がありました。その第一は、「神の国について」の力強い証しであります。「国」と訳されているのは、元来は、「支配」を表す言葉です。その支配が届いている範囲が、国と呼ばれるわけです。だから、神の国というのは、神の支配と言い換えてもよいのです。神の国とか、天国というと、何にも足りない物が無くて、痛みも苦しみもなく、私たちの望みがすべて満たされて、しあわせに、心豊かに過ごせるところ、というような情景を浮かべがちです。けれども、聖書が語っている天国、神の国、というのは、文字通り、神の支配が実現しているところに他なりません。皆が喜んで、心から神の支配に服するところ。人間の思い通りになる極楽ではなくて、神の御心が行われるところを指しているのです。』
つまり神の国、天国というのは死んだ後に初めて行くところというわけではない。そんなどこか遠くのことではなく、神の支配している所、つまり私たちの今生きているこの世界も神の支配しているところであり神の国、天国であるということだ。イエスの宣教の最初の言葉も、神の国は近づいたということだった。私たちはもうすでに神の支配の下にある、神の導きの中に生きている、そんな神の国の中に生きているということだ。今は苦しいことばかり、思うようにいかないことばかり、でも死んだ後には神の国に行けるから今は我慢する、というのとは違うということだ。もうすでに神の国はここにある、神の支配はここにある、私たちは神の支配の中に、神の支えの中に生きている、神と私たちの間の障害となるもの、つまり罪はイエスの十字架の死によってすべて取り払われた。だから私たちはもうすでに神の支えの中に、神の支配の中に生きているのだ、だからそのことを知って喜んで安心して生きなさいということだ。神の国は遙か遠く、遙か未来のことではなくて、もうすでにここにあるのだ。
また旧約聖書のついてもかの説教者はこんなことを語っている。
『パウロが語った福音の第二の焦点は、「イエスについて」であります。23節に、「モーセの律法や預言者の書を引用して」とあるのは大事なことだと思います。主イエスこそは、旧約聖書の律法を完成する方であり、預言の成就として来られた方であることを示しています。先ほど、20節にも、「イスラエルが希望していること」とありましたように、神の民の歴史につながっているのです。主イエスが約束のメシアであることを証しする言葉によって、キリストの教会は、正しい意味で、旧約聖書を取り戻した、と言ってもよいのだと思います。
私たちはなぜ、旧約聖書を読む必要があるのでしょうか。もう既に、イエスさまがおいでになったのだから、それ以前のイスラエルの歴史は関係ないではないか、そのようにお感じになる方もあると思います。主イエスの言葉や業を記している福音書をはじめとして、主イエスの救いを証ししている新約聖書には親しみを覚えるけれども、遠いユダヤの国の昔々の出来事を記している旧約聖書には、とっつきにくさを感じる人もいると思います。あるいは、敵を滅ぼし尽くすことをお命じになったり、民の背きに対して激しい怒りをもって臨まれる旧約聖書の神を、どこか遠い存在のように思ってしまう人もいるかもしれません。しかし、私たちは思い違いをしてはならないのです。私たちを納得させ、私たちを満足させるために神がおられ、聖書が書かれたということではないのです。天地万物を造られた神が最初におられるのです。私たち人間を造られた神が、ご自身に背いた人間を決してお見捨てにならず、神に背いた罪の悲惨の中からすべての民を救い出すために、一つの民族を選び出された。それがイスラエルの民の始まりであります。神は、このお選びになった民を祝福の基として、すべての民を救いに導き入れようとなさいました。エジプトの奴隷生活の中から救い出し、シナイの山で契約を結んで、これをご自身の民となさいました。しかし、選ばれた民は、繰り返し神に背き続けたのです。荒れ野の旅の中でつぶやき、手軽に幸福を与えてくれそうな偶像の神々に惑わされていきました。生けるまことの神を捨てて、自分たちに都合のよい、作り物の神、決して裁かない神を求めた。しかし、裁かない神は、本当に救うこともできないのです。選ばれた民は、滅びの危機に瀕します。しかし、その中から、信仰を建て直し、民族の伝統と誇りを立て直そうとした人たちが現れました。神に選ばれたことを誇り、神が特別に与えてくださった律法を厳格に守ろうとしました。ところがその反動として、自分たちだけを清いものとして、律法を知らない他の諸民族を見下すようになった。いわゆる独善的な「選民思想」に毒されて、本来の使命を忘れてしまったのです。
しかし、それでも神は、決してご自身の民を見捨てず、この民の中に、ご自身の独り子をお送りになりました。そして、律法を守ることによってではなくて、御子イエスを信じることによって、すべての民が救いにあずかる道を拓いてくださったのです。神と私たちの間を隔てていた私たちの罪をすべて、御子が身代わりとなって背負われ、十字架の上で完全に罪の償いを成し遂げてくださいました。そして、信仰によって御子イエスと一つに結ばれる者に、神の子としての新しい命を与えてくださるのです。そして今も、私たち一人一人を、この大いなる恵みの中に招いていてくださいます。そこでこそ、私たちが本来の神に造られた存在として、罪の束縛から解放されて、自由に愛する者として健やかに生きることのできる幸いの中へ、私たちを招いていてくださるのです。思い違いをしてはなりません。主イエスの救いは、私たちのポケットに納まるような、ちっぽけな満足を与えるものではありません。主イエスは、私たちの願いを満たし、すべて私たちの思い通りになるという意味での「天国」を来たらせるような、都合のよい救い主ではありません。そうではなくて、神によって愛され、神によって造られた者でありながら、神のもとから迷い出し、神を忘れ、失われていた者たちを、もう一度神のもとに招き集め、新しい神の民としての教会を建てるために、メシア・キリストは来られたのです。私たちは、このお方と一つに結ばれることによって、神の民のひとえだとされ、神の大いなる救いのご計画を担う者として、神によって用いられるのです。終わりの日の神の国の完成を目指して、神の民として、祝福の基となる使命を担いながら、福音を宣べ伝え、全世界を神に執り成しつつ、神のものとして喜んで生きるのです。旧約聖書から新約聖書まで、神の救いの御心が、人間の歴史を貫いています。その御心が私たちにも注がれています。この大いなる神のご計画の中に自分自身を見出し、そこからすべてを捕らえ直していくために、私たちは、神の民の歴史を学ぶのです。そこに目を開かれていく必要があるのです。』
新約の時代になって神が急に優しく愛の神になったわけではない。ずっと人を見つめ人を愛してきた。神を忘れ神から離れる民を、そのたびに呼び戻す、それが旧約から一貫している神の姿だと思う。罪深い人をそれでも自分のもとへ取り戻す、その思いの現れがイエスの十字架だったのだろう。
パウロはまずユダヤ人にそのことを伝えようとした。けれども信じる者も信じない者もいたという。圧倒的多数は信じなかったのかもしれない。
日本のクリスチャンの割合は1%にも満たないという。私たちの教会も少ない少ないというのが口癖だ。おまけに会堂も小さくなった。なんだか少ないことがとても悪いことのような気になっているのではないか。大勢にしないと、いっぱいにしないと悪いことなんだろうか。少ないことは全然悪いことではない、と思う。けれども少ないからといって、何も出来ない、出来ない、私たちは駄目だ駄目だ、と言っているとしたらそれは悪いことかもしれないと思う。
天地を創造し、あらゆるものを支配している神を私たちは信じているのだ。その神が私たちを愛し、この神の支えの中に、導きの中に、計画の中に生かされているのだ。そのことを喜んで生きていくこと、それが私たちにふさわしい生き方だろう。人数が少ないということを嘆くよりも、神と共に生きることをまず喜ぶことが先だろう。
そしてそのことを伝えていくようにというのが神から託されている私たちの務めである。牧師に対する務めではなく、教会全体に対する務めなのだ。それを聞いてくれるかどうか、礼拝に来るかどうか、続けてくるかどうか、信じてくれるかどうか、そんないろんなことが心配になる。心配するばかりで何もしないことも多い。けれども結果はどうあれ、伝えることが大事だ。まずは宣べ伝えることが大事だ。どんな時も福音を伝える。パウロがそうしたように、それが私たちにも託されている務めなのだ。