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礼拝メッセージより
説教題:「苦難の中へ」 2002年9月15日
聖書:使徒言行録 23章1-11節
苦難
神を信じれば自分の願いが叶う、自分の思い通りになる、そこまでいかなくても、自分を悪いようにはしないはず、と思う。神を信じれば、自分にいいことが起こるはず、そう思う。そうなのだろうか。
エルサレム
周りの者が身の危険があるからと反対したエルサレム行きを強行したパウロ。遂にエルサレムの都に到着したパウロと一行。すぐさま、エルサレム教会を代表するヤコブと長老たちを訪ね、異邦人伝道の成果について丁寧に報告し、改めて、理解と承認を求めようとしている。
「パウロは挨拶を済ませてから、自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明した」(21:19)。
パウロを通して神が働かれたことを聞きエルサレムの長老たちも、神を讃美した。しかしまだ問題は残っていた。ユダヤ人教会と異邦人教会の間では、律法に対する考え方が違う、という。ユダヤ人キリスト者たちは、もともとユダヤ教徒として、その伝統を重んじてきた人たちであり、聖書に記されている律法の教えを忠実に守り、キリスト者になってからも律法を重んじる生活を続けていた。そういう人たちから見れば、異邦人の中でのパウロの姿はあまりにも自由に見えた。自分たちの大切な伝統を破壊する人間、危険人物に見えたようだ。そこでパウロについてのあらぬうわさが広まっていた。大迫害の際にエルサレムから散らされ、異邦人の間に住んでいたユダヤ人たちに対して、モーセの律法から離れるように教えている、という。確かに、パウロは律法の行いが救いを保証するものだとは考えていなかった。私たちが救われるのは、ただイエス・キリストの名による、主イエスが、十字架の上で成し遂げてくださった救いの業にあずかることによって、私たちは罪赦され、神の子とされる、それ以外に、私たちの側から積み上げていって神に近づくような道はない、パウロはそう考えていた。しかしだからと言って、律法そのものを否定することはなかった。実際エルサレム教会の勧めに従って清めの式を受けている。けれどもユダヤ人の間には、パウロは律法に逆らう極悪人というようなうわさが広まっていたらしい。
そんな中でエルサレムに行くということはパウロにとってはとても危険なことだった。そして実際神殿の中で捕らえられてしまう。
このとき、パウロは、あわや命を奪われそうになったところを、かろうじて、ローマの軍隊によって守られた。もちろん、ローマの守備隊がパウロに味方したからではなかった。ローマとしては、そこで騒ぎを起こされると困るので、騒ぎの中心にいたパウロを引き離そうとして、逮捕した。千人隊長は、パウロが、最近起こった反乱の首謀者ではないかと疑ったようです。それで厳重に二本の鎖でパウロを縛らせたのです。実際、歴史の記録によれば、その頃、エジプト人の偽預言者がユダヤに現れ、追随する者たちを引き連れて、反乱を計画したそうだ。
ところがパウロが千人隊長に向かってギリシア語で話しかけたので、偽預言者でないと分かった。そこでパウロが、周りにいるユダヤの民衆に話をしたいと願うのを認めた。パウロは階段の上に立って民衆を静かにさせ、ユダヤ人の使っているヘブライ語で話し始めた、というのです。
ここでパウロは自分の生い立ち、ユダヤ人として教育されキリストを迫害してきたこと、そしてキリストとの出会い、キリストを伝える者となるようにという声を聞いたことなどを話した。ユダヤ人の神、主の命令によってキリストを伝えているのだと説明した。ところがここでまた騒ぎになり千人隊長はパウロを鞭でたたいて調べようとした。騒動を起こす張本人を処分する適当な理由を見つけようとしたのだろうか。けれどもパウロがローマの市民権を持っていることを知り、ユダヤ教の最高法院を召集して、最高法院の責任にしようとしたようだ。しかし最高法院内部の対立もありそこで別の騒動となってしまったために千人隊長はパウロを兵営に連れ出した。
ところがこれを聞いたユダヤ人たちはパウロを暗殺する陰謀を企てた、という。しかもその陰謀に荷担した者は、四十人以上いたと言う。パウロの命は更に危険になってきた。
しかしそんな状況の中で神はパウロに語りかける、「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。『勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。』」。(23:11)
主である神ご自身が、「勇気を出せ」と言って、パウロを励ます。同胞であるユダヤ人たちの激しい敵意にさらされて、しかも囚われの身となって一人うずくまるパウロの傍らに、主は立たれた。そして、呼びかけられた。パウロが何事にも動じない人間だった訳ではない。いろんなことに恐れたり不安になったりすることが度々あったことを彼は手紙の中に何回となく書いている。ここでは堂々としたパウロというふうに書かれているが、この時も実はかなり不安があったのだろう。勇気を出せ、と言われなければならないような状況だったのだろう。そんな時に神は語りかける。あなたはローマでも証しをしなければならない、と言う。私の計画の中であなたは生かされているのだ、決して見放されているわけでも、ひとりぼっちというわけでもない、神はそう語っている。
その夜、パウロは改めて、大いなる福音宣教の使命を告げらた。「ローマでも証しをしなければならない」。神のご計画が、はっきりと告げ知らされている。
けれどもパウロを取り巻く状況はそれどころではないというようなものだった。「夜が明けると、ユダヤ人たちは陰謀をたくらみ、パウロを殺すまでは飲み食いしないという誓いを立てた。このたくらみに加わった者は、四十人以上もいた」(23:12-13)。命の危険が迫っているパウロであった。しかし神はそんな中でローマでも証しをするのだと告げる。
ところで、パウロ暗殺の誓いを立てた四十人以上のユダヤ人たちは、祭司長、長老たちのところに出かけていって、自分たちの決意と計画を打ち明ける。パウロはローマの兵営の中に捕らえられており、ローマの支配下にあるユダヤ人はそのままでは手出しできない。そこで口実を設けてパウロを外へ連れ出させ、途中で待ち構えて殺してしまおうと考えた。そのために、祭司長や長老たち、ひいては最高法院まで巻き込もうとしている。最高法院で調べるからということで兵営から外に連れ出し、そこで暗殺しようと企てた。パウロにとって命の危険がどんどん迫ってきている。
ところが、このユダヤ人たちの陰謀は、思いがけないところから漏れてしまう。パウロの姉妹の子、つまり、パウロにとっては「甥」ということになるが、この人がたまたま、おじさんの身に関わる陰謀を耳にした。そしてパウロが捕らえられているローマの兵営にもぐりこんで、一部始終をパウロに知らせた。話を聞いたパウロは、この陰謀を耳にした証人である甥を千人隊長のもとに送った。そして、本人の口から千人隊長に一部始終を告げさせた。
千人隊長はパウロを総督の下へ送ることとなって、パウロの命はかろうじて守られることとなった。
ローマへ
エルサレムで逮捕されたパウロは、アンティパトリスを経て、総督のいるカイサリアまで移されることになりました。パウロはこのカイサリアにおいて、さまざまな取調べや裁きを受けることになる。しかし、やがて、カイサリアから船出して、シドンを経て、そこからさらに地中海を横切るようにして、イタリアへと向かうことになる。
いろんな人間の思い、パウロに対するユダヤ人の憎しみや殺意、ローマ兵の自分の管轄内で騒動を起こされては困るという思い、いろんな思いに翻弄されて流されているかのようなパウロである。暗殺の手はずも整っていたところを、かろうじて甥がそれを聞きつけて命からがらカイサリアまで移された。いろんな人間の思いによって右往左往しているかのようなパウロである。しかしいろんなことを通して着実にローマへ近づいている。エルサレムからカイサリアへと移される中で、すでにパウロのローマへの旅は始まっている。
「ローマでも証しをしなければならない」と言われた主の御心は、着々と成し遂げられつつある。
計画
神の計画はなんなのだろう。私たちに対する神の計画はなんなのだろう。自分の願うように、自分の願い通りにことが進むと神がこうしてくれた、神の恵だと言う。そして自分の思いもしなかった方向に進むと、苦しい状況になったように思えると何故なのだ、どうして神はこんなことをと思う。
パウロがそうであったように、自分たちにとって悪いことが起こっていると思うような時にも、後退してしまっていると思うような時にも、神は計画を持っておられ、その計画をすすめておられるのではないかと思う。どんな時にも神は共にいて私たちを支えてくれている。神の計画という大きな流れの中に私たちは生かされている。大きな川でも右に曲がったり左に曲がったりしながら、それでも着実に海に向かって流れていく。私たちも右に行ったり左に行ったり、時には逆流したりすることもある。けれどもやっぱり着実に神の大きな流れは進んでいる。その大きな流れを私たちもしっかりと見つめていこう。人生には楽しい嬉しいことばかりではない。苦しいことも悲しいことも淋しいこともある。しかしそれも神の流れの中にある苦しみや悲しみなのだ。神の手の中にあっての苦しみや悲しみなのだ。それらも全部抱えて神は私たちを支えてくれているのだ。その神の大きな手の中に私たちは生かされている。だからこそパウロも苦難の中でしっかりと生きることができたのだろうと思う。
神の大きな流れ、大きな支えを私たちもしっかりと見つめていこう。そして神の言葉を、私たちに対する神の計画をしっかりと聞いていこう。