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礼拝メッセージより
説教題:「エフェソの大騒ぎ」 2002年9月8日
聖書:使徒言行録 19章1-40節
エフェソ
エフェソは商業都市であり、遊び場でもあったそうだ。そしてエフェソにはアルテミスという大きな神殿があったそうだ。エフェソの町の人はそのアルテミス神殿を誇りに思っていたそうだ。おらが町の神殿という感じだったのだろうか。その神殿に来る人たちが大勢いたらしい。神殿を中心とした観光地という感じだったのだろうか。そしてエフェソではそういった人たちを相手にした商売も盛んだったらしい。エフェソのお守り札は、旅行の安全を保障し、子どものないものに子どもを授け、恋愛問題も仕事も成功刺さることを保障したそうだ。また聖書にあるようにアルテミス神殿の銀の模型も売られていた。
今の日本の観光地でも似たような物が売られている。そんな神殿を中心とした一大観光地といったようなところだったようだ。そこにパウロがやってきた。そして手で造ったものなどは神ではない、と伝えていたというのだから、神殿の関係の仕事をしていた人にとっては死活問題だった。神殿によって成り立っているような町で、キリストを伝えることは大変なことだ。それは街中の価値観をひっくり返すようなことでもある。
今の日本のクリスチャンはある面立派なクリスチャンだ、と聞いたことがある。キリスト教社会でない中で、しかも教会に行くこと何てのは変人のすること、と言われかねない社会の中で、礼拝に出席し続けることは大変なことだ。そういう面では今の日本のクリスチャンは立派だと言っていた。周りのみんなが教会に行くような社会で礼拝に行くのとは違う、それなりの覚悟と信仰がなければならない。そういう面ではみんな大した者のひとりなのだ。
時々テレビなどでも、日本人なのにどうして結婚式はキリスト教式でするのかとか、日本はキリスト教でないのにどうしてクリスマスだと騒ぐのか、なんてことを聞く。日本はとか、日本人はとかと言って、日本人は全てキリスト教ではないというような言い方をされる。まるでキリスト教関係者は日本人ではない、というような意識があるようだ。きっと心のどこかには日本の宗教は神社やお寺に関係するものであって、キリスト教は外国かぶれした特別の変人の宗教だという意識があるのだろうと思う。そんな中でクリスチャンでいること、教会の礼拝に出席することは大変なことだ。それだけでも大したことでもある。
エフェソの町も似たような雰囲気があったのだろう。エフェソの人間ならアルテミスの神殿を大事にするのが当然だ、というような雰囲気があったのだろう。生まれてきた時からそんな中に生きてきたなら、それを変えるということは大変なことだ。そしてそこでキリストを伝えるということは大変難しいことでもあったことだろう。しかしパウロの言葉を聞いて信じる者も多くなってきた、そうすると危機感を持った商人たちは、町の人たちを扇動してパウロを追い出してしまう。パウロは結局エフェソから追い出されたような形で町を去ることとなった。しかしそんなことがありながらも福音は少しずつ広がっていった。決して何もかもうまくいった、思い通りに言ったわけではない。いろんないざこざに巻き込まれることもあった。逃げ延びるようなこともあった。けれどもそこに神の言葉は伝えられ、神の言葉は残っていった。
利用
エフェソの人たちは自分のために、自分の利益のために神というものを利用していたようだ。なんとけしからんと思う。現代でも、信仰によって何でもできる、金持ちになる、病気も治る、結婚も就職も願い通りになる、空だって飛べる、なんて言葉を聞くことも多い。このお守りを持っていれば安全であるというようなものが世の中に満ちている。そういうものに対しては、それは間違っていると思う。けれども知らない内に何者かに縛られてしまうようなこともある。
雑誌でもテレビでも占いが大流行だ。この前面白い話しを聞いた。「会社の先輩がその会社をやめて、ある雑誌の占いコーナーを書いている。私は絶対信じない。」星座とか血液型とかでどういう運命になるとか、どういう性格をしているとかいう情報が氾濫している。そしてなんだかいつの間にかそんなものに縛られてしまっていることがよくある。
あるいはテレビでは相変わらず心霊写真がどうしたとかいうことをよくやっているが、そこでは霊能者だとか霊媒師とか言うような人が、これはここで事故で亡くなった人がどうしたこうした、というようなことを見事に説明してくれる。そうするとその話しは全く疑いのない本当の話であるかのように放送されている。あんなふうに言われたらそうかなと思うだろうなと思う。
最近は占い師と霊能者の話が一番信じられているかのようだ。政治家と牧師の話は誰も信じないが。
エフェソの町の人たちが、アルテミス神殿を悪く言う奴はけしからん、ということで扇動されてしまったように、今の日本でも占いや霊能者の声には多くの人がなびく。そんな社会の中に私たちは生きている。しかしパウロはそんな中でも命の危険も犯しながら福音を伝えていった。そしていろんなごたごたもあったけれどもその福音は着実に伝わっていった。
アルテミスがけしからんということをパウロは言いたかったわけではないだろう。自分たちの方が正しいと言って自分の正しさを主張したかったから、自分の方がすぐれているということを見せつけたかったから伝えたわけでもないだろう。そうではなく、エフェソの人にも福音を知って欲しかったから、あらゆるものから解放され自由になる、そんなイエスの福音を知って欲しかったから伝えたのだろう。イエスによって全ての罪を赦されていることを知って欲しい、そしてそこで安心して喜びをもって生きて欲しいから伝えたのだろう。何もただ自分たちの仲間が増えればそれでいいということではなかったのだと思う。そして自分たちの勢力を広めて、自分たちが力を持つために伝えていたわけでもないだろう。ただイエスを伝えたかったのだろう。
人間は楽な方へ流されるということを聞く。私たちにとって楽な方とは、世の中とはこんなものだ、これが常識だ、と言って何でもよく分かったような気になってしまうことではないかと思う。分かっていると思っているとそれ以上知ろうとはしなくなる。人間のことも神のことも、よく分かったつもりでいるとそれ以上聞くこともなくなる。人間とはこういうものだ、と言って人の話を聞くことよりも人に説教してしまうことが多い。神のこともよくしっていると思って、神の言葉を聞くよりも教会の中で偉そうにしてしまうことも多い。
日本人はキリスト教じゃない、と言われると何を言っているんだと思いつつ、他の人に向かっては、人間とはそんなものじゃない、教会とはそんなものじゃないと勝手に自分のイメージを押しつけてしまうことが多いように思う。
人間も教会も、もっともっとユニークなものじゃないかと思うようになってきた。クリスチャンも本当はもっとユニークな者じゃないのかと思う。もっともっといろいろなのがいるのが自然だと思う。どこかで無理をしたり、無理をさせたりしているような気がする。
ありのままの私たちを神は愛してくれている。そのままの私を愛されている、そしてそのままの隣の人も愛されている。教会の中でもこうしなければいけない、これはしてはいけない、というような私たちが勝手に自分で作っているものに随分縛られているのかもしれない。神の言葉よりも、人の言葉の方に縛られているとしたらそれはおかしなことだ。キリストを私たちを自由にしてくれた。何かに縛られているような気持ちがあるとすれば、それは神の言葉ではない、何か違う声の方に縛られていると言うことだと思う。
神の声をしっかりと聞いていこう。