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礼拝メッセージより
説教題:「獄中讃美」 2002年9月1日
聖書:使徒言行録 16章6-34節
脅迫
フィリピ、それはローマの植民都市。外国に建設された小さなローマ。そしてそこは戦略上の重要拠点で、ローマの兵士の一団が駐屯していた。
フィリピにはユダヤ人の会堂がなかったらしい。会堂がないところでは、ユダヤ人は祈りの場所を持っていて、それはたいてい川の畔だったそうだ。そこでパウロたちは安息日に川岸に行き、祈りの場所を見つけ、そこに集まっている婦人たちと話しをした。
そこにリディアという婦人がいた。紫布のを商う人で、神をあがめている人であった。紫の染料は、ある種の貝殻から一滴一滴集めなければならないような貴重な高価なものだったそうだ。その紫に停めた布を扱うリディアは上流階級の金持ちの人だったのだろう。その人がパウロの話しを注意深く聞き、そしてすぐにバプテスマを受けた。彼女だけではなく家族も一緒に。非常にすばやい行動だ。
リディアはかなり裕福で大きな家も持っていたのだろう。彼女はパウロたちをかなり強引に家に招く。
『「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言ってわたしたちを招待し、無理に承知させた。』ほとんど脅迫みたいだ。そこまでいわれれば泊まらないわけにはいかない。積極的にもてなしをしようとする。
占いの霊
同じフィリピの町に占いの霊に取り付かれている女奴隷がいた。この占い師は未来を予言する神の託宣、おつげを与えられる人であった。あるいはこの人は精神的な病気を持つ人だったのかもしれない。古代社会では神々の心を入れるために正しい分別をその人から取り去っているという考えがあり、このような人たちは尊敬もされていたそうだ。そしてそういう人たちを利用する輩もいた。彼らは神の御告げを聞く者から謝礼を取っていた。
この女がパウロたちの後についてみんなに言いふらす。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」。内容としては間違っていない。そのままパウロたちもこの女を利用して自分たちの宣伝をしたらよかった?。この占い師も告げている通り私たちは真の神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです、と。でもパウロたちはそうはしなかった。何日もこんなことが続いたためにパウロはイエスの名によってこの霊を追い出した。
商売の邪魔
女にとってはそのことでやっと人間らしく生きることができるようになったはずだ。しかしそのことでかつての占いは出来なくなってしまった。
女の主人たちはこの女がまともになることに我慢ならない。飯の種がなくなってしまった、としか思っていない。彼らにとってこの女は結局は人間ではなかった。単なる道具、自分たちにとって都合のいい、なんでも思い通りに出来る生き物でしかなかったのだろう。自分たちの金もうけができればあとはどうでもいい、その女がどんなに苦しんでいようと、悲しんでいようとそんなことはどうでもよかったのだろう。この女はただ自分たちが利用するだけの者だったのだ。
パウロは女から霊を追い出した、と聖書は告げる。霊を追い出したとはどういうことか。具体的にはよくはわからないが、とにかくただの物同様であった彼女を、まともなひとりの人間として見られない、占いの道具としてしか見られないような彼女を、誰が見ても明らかな一人の人間に変えるということだったのだろう。
しかし主人たちは女が一人の人間となることに対しても全く喜びもない。一人の人が人間らしく生きることを喜ばないこともあるのだ。実はこの女奴隷は占いの霊にとりつかれているだけではなく、主人たちにもとりつかれていたのだろう。
この女の主人はパウロたちを役人につきだす。それも内乱罪、騒乱罪?として。頭に来たらなりふりかまわずやってしまう、という感じ。そしてパウロとシラスは捕まえられ鞭で打たれ、しかもご丁寧に一番奥の牢に木の足枷をはめられて入れられてしまう。
占いの霊に取り憑かれていたような、それは妄想だったのか何だったのかよく分からないが、その女性を助けた、そんないいことをしたはずなのに、ひどい目にあってしまう。
讃美
こんないいことをしているのにどうしてこんな目に遭わなければならないのか、と思うことが多いのが現実だ。誰かを助けてあげようとしても余計なお世話だと怒られてしまったりするようなこともある。
しかしパウロとシラスはその境遇を呪うこともなかったようだ。そんなのは当たり前だったのだろうか。真夜中ごろに彼らはは讃美歌を歌い祈っている。そしてその時大地震が起こった。牢の戸が開き囚人の鎖も外れてしまう。
看守
このことに一番びっくりしたのは牢の看守だった。
ローマの法律に従えば、囚人が逃亡した場合、看守はその囚人が受けるはずの罰を負わないといけないとされていた。死刑囚を逃がすと死刑にされてしまうということのようだ。
そこでこの看守は、牢が開いてしまったのだから当然囚人は逃げていると考え自殺しようとする。この後の自分に対する罰を考えると恐ろしくてたまらなかったのだろうか。思いもよらない大変な事態に彼の頭の中は相当に混乱していたに違いないだろうと思う。もう自分ではどうすることもできない事態が起こってしまい、その後の処罰に対する恐怖と、そのことに対して何も出来ないという自分の無力感に襲われていたのではないだろうか。そこでもう死ぬしかないと思ったのだろう。
自由
しかしパウロたちは逃げないでそこにいた。逃げる自由を与えられたのにあえてそこにとどまっていた。何が彼らをそうさせたのだろうか。
私たちは牢屋の中には自由はないと考えている。牢屋の外にこそ自由はあると。足枷をされていないことこそが自由であるというふうに思っている。でも実は案外そうでもないらしい。
牢屋の中にいたパウロとシラスは真夜中に讃美歌を歌い祈っていたというのだ。足枷もされていたが、でも心は誰にも縛られてはいないようだ。自由とは自分の体を思い通りに動かせることとはちょっと違うみたいだ。
身体は自由に動かせても、私たちは結構いろんなものに縛られている。
昔学校に行っている時も会社に行っている時も、日曜日の夕方当りからいつも憂鬱だった。明日からまた学校かとかまた仕事か、なんて考えると休みにもあまり休めないようなところがあった。ところが人によっては日曜日の夜遅くまで楽しく遊ぶ人がいることを知ってびっくりした。もちろん月曜日の朝から仕事があるのに、である。
何かに心が縛られていることこそが不自由なのではないか、と思う。
忙しいから、お金がないから、年を取ったから何も出来ないと思う。確かにそういうこともあるだろう。けれでも本当は忙しいからできないのではなく、お金がないからできないのではなく、年を取ったからできないのではないことの方が遙かに多いように思う。本当は、忙しいから、お金がないから、年を取ったから、何も出来ないのだ、できなくなったのだと思ってしまっているから、自分が決めつけてしまっているからできなくなってしまっていることがいっぱいあるように思う。そう思うから本当はできることまでできないことにしてしまっている。自分で自分を不自由にしてしまっている、そんなことがいっぱいあるように思う。
牢に入っていても、牢に入れられてしまった、何ということになってしまったのか、何も悪いことはしてないのにどうしてこんなことになったんだ、なんとかして早く出たい、早くだせ〜、なんてことばかり思っていたとしたらこれは心も不自由だろう。けれどもパウロとシラスは牢に入れられているから不自由であり不幸であり、何とか早くその不自由と不幸から抜け出さないといけないとは考えていなかったようだ。
【ガラテヤの信徒人への手紙5:1】「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」という言葉がある。この自由はたとえ牢につながれてもなくならない自由なのだろう。どんな境遇でも持つことの出来る自由なのだろう。
宝
何物からも縛られない自由をイエス・キリストは私たちに与えてくださっっていると聖書は告げる。キリストによって与えられた自由、それこそが私たちにとっての宝なのではないか。実は私たちを自由でなくし、縛り付ける最大のものは自分自身なのかもしれない。こうしなければ、ああしなければ、これはいけない、あれはいけないという声をいろんな所で聞く。そしてその声を取り込んで実は自分自身で自分を縛りつけていることが多いのかもしれない。男らしく女らしく、なんてのから、クリスチャンらしくなんてものまでいろいろなものがある。それもそうしないとなんとなくまわりの目が気になるから、なんてことで本当の自分でない、うその自分を演じてしまうことが多い。あれもできない、これもできないと自分で自分をできない人間にしてしまっていることも多いような気がする。
看守はパウロとシラスの態度を見て恐れ入ってしまった。
自分とは違うものを彼らが持っていること、自分とは違う生き方、それに対して看守は恐れ入り、自分も同じものを持ちたいと願った。
何者にも縛られない自由、キリストによって与えられた自由、それは獄中でさえも讃美するような自由なのだ。私たちがどこにいようと、どんな境遇にあろうと神は共にいる。神と共にいるところ、そこが神の国、天国なのだ。そんな神の国に私たちも招き入れられているのだ。
私たちを縛り付けるあらゆるものから私たちはすでに解放されているのだ。こうしとかないといけないのではないかと恐れる必要はない、と言われているような気がする。そして本当に大事なことを大事にしなさい、何が大事な事なのか、それをしっかりと聞いていきなさいと言われているのではないか。