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礼拝メッセージより
説教題:「いらっしゃい」 2002年8月25日
聖書:コリントの信徒への手紙 一 1章1-9節
手紙
手紙である。パウロがこの手紙で何を伝えようとしているのか、それをそれこそ一字一句もらさず、そして書かれていないことまで、行間まで読むようなつもりで読めればいいなと思う。きっとそうするとパウロが言いたいことも分かってくるのだろうと思う。
手紙を貰った時にどんな読み方をするか。嫌いな人からの手紙はろくに読みもしないかもしれないが、好きな人からの手紙は一生懸命に読む。それこそ、一字一句漏らさず、書いていないことまで、行間まで読む。
コリント
この手紙の受け取り主であるコリントの教会があるコリントという町は、ローマの植民都市として再建され、アカヤ県の首都として、また港湾・通商都市としてギリシャ全土の枢要な位置を占めた。この教会はパウロによって第2伝道旅行中、おそらく紀元49年頃、諸教会の要として形成され、その際、シルワノやテモテが助けた。構成は、大半が異邦人キリスト者であったが、ユダヤ人も含まれ、社会的に下層の人々、だけでなく、富裕なものもいた。
神の教会
今日読んで貰った箇所はパウロの手紙の頭に付き物の挨拶である。しかし実際こんな長いあいさつみたことない。
コリントにある神の教会へ、と言っている。神の教会なのだ。人間が作ったものではない、神が作ったものだ。つまり人間が、仲がいいからとか、意見が合うからとか、何かをするためとか、そういうことで集まってできたのが教会ではない。
神が集められたのが教会だ。私たちは神に集められた一人一人なのだ。
聖なる者
またコリントの教会の人たちを聖なる者とされた人々、と読んでいる。しかもイエス・キリストによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々、と呼ばれている。
人間的な行い、よい行いや修行をしていい人間になったり、すぐれた人間になった者が集まったのが教会ではない。キリスト・イエスによって召されて聖なるものとされた者の集まりが教会なのだ。ただ神によって聖なる者とされた人の集まりが教会だ。聖なるとは、汚れがなくなることではなく、罪がなくなることでも、間違いを犯さない、失敗をしない人間になることではない。間違いも失敗も罪も持ちつつ、イエスによって罪なきものと見なされる者とされた、罪赦された、それが聖なる者とされたということだろう。
パウロはコリントの教会の人々をそういう意味で聖なる者と呼んでいる。コリントの教会はいろいろな問題を抱えていたことがこの手紙の中でも書かれている。争いがあったり、不平不満があり、また不道徳とあったらしい。問題だらけの教会でもあったようだ。この手紙はその問題に対するパウロからの回答である。
にもかかわらずパウロはそのコリント教会の人たちに向かって、聖なる者、と呼びかけている。あなたたちは神の民だ、と言っているのだ。神によって集められた、召された者なのだ。神が目的を持って呼び出された者なのだ、と呼びかけている。
私たちは教会の中でも自分と人を比べて、何ができるとかできないとか、能力があるとかないとか考える。しかし何かが出来ても出来なくても、能力がいっぱいあってもなくても、とにかく神が召されたのだ。神が私たちを呼ばれたのだ。それこそが大事、ほとんどそれだけが大事なのだと思う。ただその一点が教会が教会である所以なのだと思う。
イエス・キリストによって
そして聖なる者とされた、の前にイエス・キリストによって、とある。イエス・キリストの十字架の死によって私たちは聖なる者とされている。私たちみんなそれぞれがそうなのだ。誰もがイエスによって罪赦されなければならない者なのだ。
だからお互いに罪を持っているもの同士なのだ。イエス・キリストの十字架によって初めて赦されたもの同士なのだ。イエス・キリストの十字架でなければ償うことのできない罪を持っている者なのだ。しかしそんな者を神は集められた。
教会はそうして集められたものの集まりなのだ。神の憐れみによって赦されているものの集まりなのだ。そこのところを忘れてしまうと、あるいはそこのところを軽く見てしまうことからコリントの教会ではいろいろな問題が起こってきたようだ。そして私たちの教会でも同じ理由からいろんな問題が起こっているのだろう。
感謝
パウロは4節以下で、感謝している、豊かにされている、確かなものとなった、…。神がこんな恵みをあたえてくださった、そして最後まで支えて下さり、非の打ち所の無い物として下さると述べている。
神がそうしてくださった、そして神がこれからもそうして下さる、と述べる。この神によって、あなたがたは神の子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのだと言う。
ところが10節以下ではコリント教会の仲たがいのことに触れる。しかしその前に、パウロは神が招いて下さったことを述べる。神がそうしてくださった、と。
神が招いて、神の子として下さった、だからこそ、それにふさわしくしよう、というのだ。だから仲たがいしないようにしようと。
仲たがいしないようにすることで神が招いてくれる、だから仲良くしよう、と言うのではない。先に神が招いてくれているから、神が恵みを与えてくれているから、だからそのことを大事にしよう、だからその神の恵みに応えていこう、というのだ。
いらっしゃい
神は罪ある者を招いておられる。罪あるままでこっちへいらっしゃいと言われる。あなたの罪は赦されている、イエスの十字架によって赦されている、だから私のもとへ来なさい、と言われている。
最初は教会に来るだけでも嬉しかったのに、教会に長いこと居ると、教会の中であれもこれもすることが義務のように思えてくることがある。あれもこれも出来るようになることが、立派なクリスチャンであるかのような気がしたり、何かする者が立派なもののように思えてきたりする。誰にも出来ないすごいことをすることがすぐれた人間の証のような気になって、何も出来ない自分は駄目な教会員だなんて事を言う人もいる。神に召されている、呼び集められているという喜びがなくなると、やたらと周りの人間のことが気になって、あいつは傲慢だとか、あの人は何もしないとか、あの人はあの人は、というふうに人を裁いてしまう。けれども人を裁くときというのは、自分自身も裁いているらしいから、そうすると自分も周りもみんな裁いて駄目だ駄目だ駄目だといつも思ってしまうということになる。自分に何が出来るか出来ないか、周りの人間に何が出来るとか出来ないとか、そんなことばかりが気になってしまう。そんな時は神が招いてくれていること、神に招かれていることを忘れてしまっているのではないかと思う。
26節以下では、「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」といわれている。
召された時のこと、神に呼ばれたときのこと、自分が神に呼び集められた者であることを思い出しなさいということだろう。私たちは才能を見込まれて呼ばれたわけでもなく、試験に合格した訳でもない。何もない、何もないのに呼ばれた、ただ神に集められてここにいるのだ。何もない無力な無学な無知な私を神が呼んでくれた、そのことを思い出しなさいとパウロはいうのだ。
そしてきっと神は私たちをずっと呼び続けてくれている。疲れ果てて倒れてしまう時も、思うようにいかないことばかりにいらいらし投げやりになる時も、そして神を忘れてさまよう時も、こっちにいらっしゃい、あなたは私にとって特別なひとりなのだ、あなたは大事なひとりなのだ、と呼ぶ続けてくださっているのではないかと思う。神のその呼ぶかける声を聞き、私を呼んでくれていること、神の民としてくださっていることを喜んでいきたいと思う。l>