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礼拝メッセージより
説教題:「派遣する教会」 2002年8月18日
聖書:使徒言行録 13章1-12節、44-52節
自己満足
いろんな教会から支援してもらって教会堂ができた。貧しい教会からも支援して貰って綺麗な教会になる。クーラーもないような教会から支援して貰ってクーラーの完備する教会になる。何とも不思議な感覚になる。もらってばっかりでいいんだろうかと思う。
派遣
今日の聖書では、教会がバルナバとパウロを派遣したことが書かれている。キリスト教会が出来てまだ間もないころのことだ。そんな教会が今度はいわば宣教師を派遣するというようなことだろう。
派遣する教会なんてのはかっこいい。しかし大変なのは残される教会だろう。
中四国連合では牧師がいない教会を支援していく働きがある。牧師がいない、無牧師の教会の大変さはどれほどのものなのだろうか。その教会のために他の教会の牧師が交代で月に一度ほど礼拝の説教に行く。
そこで、うちの教会の牧師が無牧師支援に行くんだ、と言うのはかっこいい。しかしそのために日曜日に牧師がいなくなると残った教会はまた大変だろう。説教はどうするのか、週報はどうするのか、教会堂の玄関の鍵は誰があけるのか、冬の寒いときに早くから礼拝堂の暖房しないといけないのにそれはどうするのか、マイクは、照明は、新来者の挨拶は、、、いろんなことが出てくる。牧師を派遣するというのはかっこいいけれども、その分大変なことが待っている。
しかしその大変さを分かち合おうとすること、毎週毎週牧師がいないという教会の大変さを少し分けて貰う、それが無牧師教会支援ということでもあるのだと思う。牧師がいなくて困っている教会のために牧師が行って助ける、ということは向こうの教会の大変さをこちらが少し分けて貰って、こっちが大変になる、そのことで向こうの教会の大変さを少し減らそうとする、そういうことなのだと思う。説教や週報や暖房やマイクや挨拶や、そんないろんなことを自分が引き受ける、自分にできることを積極的にやっていこうとする、それがなければ派遣などできはしないのだ。牧師は無牧師教会をしっかりと助けてください、でも週報も礼拝の準備も全部やって、その日の説教はテープに入れておいてボタンひとつ押せば聞けるようにしておいて、いつもの礼拝と何ら変わらない同じように支障のないようにしておいてください、なんて言われたら支援なんて出来ない。それだと牧師だけは無牧師の教会を支援しているかもしれないが、教会が向こうの教会を支援していることにはならないのだと思う。ついでに愚痴をこぼすと、牧師も休暇を取って下さい、でも礼拝に支障がないように日曜日の説教は休まないでくれ、と言われると実質あまり休めない。
教会が誰かを派遣するということは、ただ派遣される人が外へ出ていくということだけではなく、残された者たちがしっかりと教会を支えていく、自分の出来ることをやっていく、一人一人が教会を支えていく、そういう気持ちがあるから派遣していく事が出来るのだと思う。そしてそんな思いがあったからキリスト教は世界へ広まって行ったのだと思う。
自分の教会が安泰であればいい、大きくなればそれでいい、借金がなければそれでいい、ただそれしか考えないとするならば派遣するなんてことはできないだろう。誰かを派遣しようとする時に、あんたたちがいなくなってしまったら残された私たちはどうするのだ、と言っていたのでは派遣などできない。そんなこと聞かされたら出ていこうとする者の意欲もやる気も失せてしまうだろう。残された教会は任しておけ、あなたたちは神に託された務めを充分に果たして来てくれ、と言われることで始めて安心して出ていけるのではないかと思う。
あるいはまた、自分だけがいっぱい受けていい思いをできれば、毎週の礼拝で自分はできるだけ何もしないで、みんなから挨拶されて、いい話しを聞いて、いい気分になって、お茶や食事を用意して貰って、いい気分で帰れればそれでいい、という思いだけならば、みんながそう思っていたならば、教会はきっと衰退していくことだろう。みんなからしてもらうことを望むのが人間の常だ。いろいろ大事にしてもらうことは嬉しいことだ。けれどもそれよりももっと嬉しいことは自分が誰かのために何かを出来ることだろうと思う。それはもちろんしんどい事で面倒な事だ。けれどもそこにこそ一番の喜びがあるのだと思う。してもらうことばかり考えていると、結局は不満が溜まるだけだ。うれしかったことが当たり前になって、もっともっともっとと期待してしまう。そしてそれが叶わないと言って不満を溜め込んでしまう。昔はあんなことをしてくれた、あの人はああしてくれた、なのに今は何もしてくれない、この人は全くダメだ、なんてことになる。受けるよりも与える方が幸いである、という言葉は教会の中ではよく知られている言葉だ。けれどもそれはすっかり手垢が付いた言葉になってしまっているように思う。与えると言うことは、ただ余った分をあげましょうということとは違うと思うのだ。教会には家庭でいらなくなった物が集まってくるそうだが、与えるということはそんな風にいらない物をよそにまわすことではなくて、自分の身を削って時間を削って誰かのために何かをすることなのだと思う。忙しい時間をやりくりして、あるいは少ないお金をやりくりして自分の欲しいものをすこし我慢して、その分を誰かのために使う、それが与えるということなのだと思う。自分が痛い思いをして与える、そこに幸せがあるのだと思う。
教会堂を建築して、自分たちも献金して、いろんなところから支援してもらい完成した。私たちの教会よりももっともっと小さい教会からも、もっともっと苦しい教会からも、もっともっと借金している教会からもきっと支援して貰っていることだろうと思う。私たちは最終的にどれくらいの金額で、どれくらい返済していかないといけないのか、ということに関してはとても敏感である。自分たちの借金の額にはとても敏感である。けれども、これから今度は逆に自分たちが誰かを支援していくこと、自分たちが与えることに関して考えていければいいなと思う。借金が少なくて早く返済が終われば、ということは考えるけれども、自分たちが誰かのために、どこかの教会のために、これから何ができるか、そのことを考えていきたいと思う。よその教会の借金を少しでも軽くできるならばそれはすごい事、素敵な事だと思う。そのために自分たちがその分少し多く献金できるならばそれはとてもうれしい幸せなことだ。
牧師がいない教会のこと、借金をいっぱい抱えて一所懸命に献金して返している教会のこと、他にもいろんな問題を抱えて苦闘している教会のこと、その教会のために私たちに何ができるか、そのことを今度は私たちが考えていきたいと思う。確かにこれから借金を返していかないといけないわけだけれども、ただ借金を返すことばかりを考えていくというのは淋しいことだし、きっとそれは貧しいことでもあると思う。こっちも苦しいからと言って、もっともっと苦しんでいる教会のことを放っておいていいわけでもなく、苦しいからこそ他の教会の苦しみも分かるのだと思う。
教会単位の話しだけではなく、個人的にも自分以外の誰かのこと、自分のすぐ隣の人の大変さを自分が引き受けていければいいなと思う。愛すると言うことはそういうことでもあるのだと思う。
聖霊によって
聖書はバルナバとサウロは聖霊によって選ばれ、聖霊によって送り出されたという。いわば神によって勝手に決められ勝手に出ていくようにされたというのだ。もちろん神に聞いていったということで、それは礼拝を通して祈りを通して示されていったということなのだと思う。
教会では祈ってます、ということをよく聞く。祈ってますってどういうことなのだろうかとこのごろ思う。祈りとは神を変えることではなく、祈る者を変えることだ、と聞く。祈るとは、この人のことを神さまよろしく、と言って神を動かすということもあるのかもしれないが、それと同時にあるいはそれよりもその人のために私に何ができるでしょう、何をすればいいでしょうということを聞いていくことなのではないかと思う。祈りは神を変えるのではなく、自分が変わることだというのはそういうことではないかと思う。祈っています、というのはその人のために自分に何が出来るかを神に聞いていくことなのではないかと思う。時々祈ることが大事なのか、行動することが大事なのかどちらが大事なのかというような事を聞く。けれども祈りと行動は別々なのではないと思うのだ。祈るから祈っているからそれ以上何もしないというのではなく、祈るから何かを始める、祈りから行動が起きてくるのだと思う。
そしてそんな祈りの中でバルナバとパウロに神の仕事に当たらせるようにと言う神の声を聞いていったのだと思う。
苦闘している教会のために私たちの教会に何が出来るか、苦しんでいる人のために私に何が出来るか、そのことを祈っていきたい、そして神の声を聞いていきたいと思う。そこからつながりが生まれてくるのだと思う。
つながりを持つことが私たちにとってはとても幸せな事なのだと思う。いろんな教会から私たちは支援された。それはその教会が呉教会とのつながりを持ってくれたということでもあると思う。ただ強い裕福な教会が弱い貧しい教会を助けるということではなく、強い弱いに関係なくつながりを持とうとしてくれた、それが支援をするという形になったのだと思う。そしてそれは支援される側にとっても幸せだが、支援する側にとっても幸せなことなのだろうと思う。多分きっと自分たちのお金を工面して集めてくれたお金なんだろうと思う。教会の会計をやりくりしたり、こづかいを減らしたり、少しずつ痛い思いをして集められたお金なんだろうと思う。きっと支援というのはそういうものなのだ。余っているお金を集めたのではなく、誰もが痛い辛い思いをして集めたお金なのだと思う。そんな辛さが詰まっているのだと思う。そしてそれは私たちの辛さをその分軽くするためのものなのだろう。そうやって私たちとつながりを持ってくれているのだ。
今度は私たちがどこかとつながりを持ちたいと思う。私たちもどこかの誰かの辛さを引き受けて、分けて貰って、そんな覚悟を持って今度はこちらからつながりを持ちたいと思う。そこにはきっと私たちのまだ知らない喜びがあるのだと思う。
教会の誰かを宣教師として派遣するなんてことは出来ないかもしれない。けれどもいろんな事を通して、いろんな支援とか祈りとかを通して、私たちも外の世界とのつながりを持っていくことはできる。それは私たちが外へ出ていくことと等しいことだと思う。
みんながしっかりと教会を支え、私たちも支援する教会へとなっていきたいと思う。きっとそこに新しい喜びが待っているのだろう。