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礼拝メッセージより
説教題:「境界線」 2002年8月11日
聖書:使徒言行録 10章1-35節
汚れた物
時々テレビで外国に行って、普段日本ではほとんど食べないものを食べるようなことを放送している番組がある。いなごとかバッタみたいな物から、アリとか蜘蛛と何かの幼虫とかいうものを、食べられるかどうか、というような放送を見ることがある。
レビ記11章に汚れたものについて書かれている。
11:1 主はモーセとアロンにこう仰せになった。11:2 イスラエルの民に告げてこう言いなさい。地上のあらゆる動物のうちで、あなたたちの食べてよい生き物は、11:3 ひづめが分かれ、完全に割れており、しかも反すうするものである。11:4 従って反すうするだけか、あるいは、ひづめが分かれただけの生き物は食べてはならない。らくだは反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。11:5 岩狸は反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。11:6 野兎も反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。11:7 いのししはひづめが分かれ、完全に割れているが、全く反すうしないから、汚れたものである。11:8 これらの動物の肉を食べてはならない。死骸に触れてはならない。これらは汚れたものである。
この後は水中の生き物や鳥やいろいろな動物についても何が汚れているかということが書かれている。何を食べていいか、何を食べてはいけないかということが書かれている。
そしてその決まりを守ると言うことは、その信仰を大事にすること、その宗教を信じるということは、その教え、その決まりを守ること、食べてはいけないといわれる物を食べないこと、それはその宗教を信じるということでもあるのだろう。
ペトロにとっても、幻で見せられた動物を食べることなど、小さいころからの教えに反することだったのだろう。ずっと小さいころからいわれ続けていると、そしてそれをずっと守っていると、それを破ることは相当難しいことだ。
最初に言ったテレビのように気持ち悪いから食べられない、というような事だけではなく、それよりも食べてはいけない物なのだ、という風に決められているものを突然食べなさいと言われてもなかなかそうもいかないだろう。ペトロにとっては汚れた物を今までずっと食べてこなかった、そしてそれが自分の名誉でもあったのだろう。それは自分のプライドでもあったのだろう。ずっと守り通してきた掟なのだ。その掟を破るということは、何でも食べていい、何でも分け隔てしないということで、しばりつけられていたことから自由にされるということよりも、自分の今までの生き方、自分が頑固に守り通してきたしきたりを捨てるということなのだと思う。
人間はプライドの生き物だ。自分がこうだというものを捨てることなどなかなかできないことだ。ペトロも、幻の中で、屠って食べなさいという声に対して3度拒否したと書かれている。天からの声に対しても3度拒否する、それほど人は自分の生き方を変えることが難しい生き物であるのだろう。
ペトロも幻を見せられて、そしてそんなことはできない、と3度反論してやっと変えられた。神によってほとんど無理矢理に新しい世界へ出発させられたようなものだ。
人は誰もが人と人との中に境界線を作って分けたがる。汚れた物と汚れてない物、汚れた物を食べる人と食べない人。自分と同じことをしている者に対しては寛容で親切で、それ以外の人とは敵対する。自分が気に入っている人たちは立派な人だと言い、自分が気に入らない人に対してはおかしな奴らだと言う。そしていつも自分は正しい側、立派な側にいるような気になっている。
ペトロも自分のこれまでのしきたりを守ってきたことが正しい立派なことと思っていたのだと思う。だからこそそれを守ってきたのだろう。しかしそれを神によって崩されてしまった。自分が守ってきたものが全てでないことをペトロは知らされた。
自分は正しい、間違ってないと主張する人が、誰が見てもおかしな事をしている、なんてこともよくある。自分は間違っていないと主張することで、却って自分の間違いに気づかない、自分の間違いを認められなくなってしまうことがある。
人は誰も間違いを持っている。自分がこれが正しいとすがっていたことが間違いであったということになるかもしれない。ペトロはその自分がすがっていたものが、汚れた物を食べないということが、絶対的なものでないこと、絶対正しいというものでないことを突きつけられたのだ。ユダヤ人と異邦人という考え、清い民と汚れた民という考えがペトロの頭の中にはまだまだ残っていた。自分たちは清い民で、異邦人は汚れた民であるということが当然のことと思っていたのだろうと思う。そういう中でずっと生きてきたのだ。
しかしペトロはそれが間違いであることを認めた。神と問答することで認めることができた。自分が間違うことがあること、自分が間違いを持っていること、それを認めるところからこの物語は始まったのではないかと思う。そしてペトロは新しい世界へ一歩を踏み出したのだ。
私たちはどうなのだろうか。教会はどうなのだろうか。神は全知全能である。しかしだからと言ってそれを信じている自分が全知全能であるというわけではない。自分の考えが絶対ではない。自分のやっていること、自分の守っていることが絶対正しいというわけではない。自分は正しい、あいつは間違っているというところで私たちは境界線を作ってしまいがちだ。正しいこちら側にきなさい、なんてことを言ってしまう。俺たちの方が正しいんだ、と言って争ってばかりというのが今の社会の現状のように思う。
正しいか正しくないか、どこまでが正しくどこからが正しくないか、どこまでが許され、どこからが許されないか、私たちはそんな評価する見方で人を見てしまう癖がある。そして人と人の間に境界線を引いてしまう。
しかしここに言われているように、「神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならない」のだ。私たちは人を見て清くないとか、汚れているとか、間違っているとか判断して、駄目な奴だと思ってしまう。けれどもそうやって私たちが勝手に決めつけてはいけないのだ。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」とも言われている。
誰かを駄目だ、けしからんと決めつける時、それは神が良し、ということを否定することなのかもしれない。イエスの十字架の死によって赦されている者を、また罪あるものとしてしまっているのかもしれない。
私たちこそ赦されなければならない者なのだ。私たちも赦された者なのだ。私たちが、教会の人間が立派な汚れのない人間ではない。汚れた罪深い人間なのだ。私たちこそ誰よりも赦されなければならない罪人なのだ。そのことを忘れて、自分はきよめられた清い人間であると思ってしまうことが最も罪深いことなのかもしれない。
神は全ての者を愛しているという。そして私たちはその神が愛されて者を同じように愛することを求められているのだと思う。そして愛することこそが私たちにとっても喜びとなることなのだと思う。境界線を作って誰かを締め出すのではなく、同じ罪深い者として愛していきたいと思う。