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礼拝メッセージより
説教題:「改心、戒心、回心」 2002年8月4日
聖書:使徒言行録 9章1-31節
信念
サウロはユダヤ名、パウロはローマ名。律法に熱心な、熱血の男、サウロ。
サウロは、ヘレニズム文化の栄えたキリキアのタルソという都市で生まれ育ったディアスポラ(離散)のユダヤ人だった。そして彼は、ローマの市民権を持っていた(16・37)。そこで彼は、自分を専らローマ名で呼んでいた。しかし一方、彼はイスラエルの民としての誇りを持ち(フィリピ3・5)、パリサイ派の厳格な教育を受けた。そして律法には落ち度のない者だった(フィリピ3・6)。
その頃、イエスという男を信奉し、律法を軽視する集団が広まっていたので、律法に熱心なサウロにとっては、許しておけなかった。「主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き」なんてあるように、サウロは、キリスト教徒迫害を、上の人から命じられてしたのではなく、自らの熱心から、自らの信念から進んでしていたようだ。
人はしばしば自分の信仰に熱心なあまり、他の人の信仰を断罪してきた。宗教の名のもとに、神の名のもとに醜い争いをし、人を殺してきた。それがいまだに続いている。だから宗教はだめなんだ、キリスト教も同じだ、と言われている。どうなのだろうか。
召し
そんなサウロにイエスが現れた。そして彼を自分のことを伝えるための器だ、なんてことを言う。
突然の召しだ。戦時中を舞台にするドラマにはよく、召集令状が届いて突然軍隊に行くことになるという話しが出てくるが、それと似ている。サウロにとっては全く予期しない出来事だったように見える。そしてそれは全く理解できない召集という気もする。イエスは自分を、自分を信じる民を迫害している者を、自分を伝える者として召す。
どうしてそんな者を神は選ぶのか。なんとも理解しがたいことに思える。何もそんな奴にさせなくてもいいじゃないか。パウロの何がどうだから選ばれたのかはわからないが、とにかくイエス自身がサウロを選んだということだ。
この時にどんなことが起こったのかよくわからない。サウロに同行していた者は声は聞こえても姿は見えなかった、と書かれている。サウロ自身もその後目が見えなくなってしまっている。強烈な光のせいでそうなったのだろうか。
天からの光に照らされるというのもすごい出来事だが、サウロの心の中にも強烈な光が射し込んだに違いない。自分が、こいつは偽物だ偽キリストだと思って、そう信じて迫害していたイエスが実は本当のキリストだったとわかったのだから。疑いようの無い仕方でそのことを知らされてしまったのだ。
ということは今までやってきたことがとんでもない間違いであったということを突きつけられたということだ。おまえらは間違っている、そんなことを続けることは許さない、続けるなら処刑する、といっていた自分の方が間違っていたと知らされたのだ。
そこに人生を掛けてきていたであろうサウロにとっては、ちょっと間違ってたかな、どころではない。人生を根底から建て直さねばならないような事態だ。三日間飲み食いしなかった、とある。三日間必死にいろいろなことを考えたに違いない。今までの事、これからどうするのか、ものすごい集中力で考えたことだろう。
アナニア
アナニアはそんなサウロの所へ行けという命令を受ける。彼も困ったことだろう。サウロのところへ行って祈ってやれなんて言われて。実際、あいつはとんでもない奴ですよ、と答えている。でも彼はサウロのところへ出かけていく。
実はこの人こそが偉いのかもしれない。神がその人を選んだのだ、と言われたことに対して忠実に従っている。へたをすると捕まって殺されるかもしれないのに。
神が選んだ、神が立てた、ということだけでその相手を大事にするなんてことはなかなかできない。神に立てられていると言われても、あの人はここがだめだ、あそこがだめだ、何もしてくれない、なんて思う。そんな目で見ることが多い。神が選んだということよりも、その人の資質とか人間性の方に目を向けることが多い。そしてこの人は神に選ばれるべき人間ではない、と決めつけてしまうことが多いような気がする。
アナニアもサウロがとても神に選ばれた人間とは思えなかったようだ。けれどもアナニアは、どうしてあんな奴が、という思いを持ちつつ、神がサウロの所へ行けと言われた言葉に従った。自分の知っているサウロの人間性とか資質とか経歴とかいうようなものよりも、神の命令、神の選びを優先したということだろう。
信念
サウロは自分の信仰、信念に従ってキリスト教を迫害していた。そして、この時点から今度は自分の信念に従ってキリストを伝えていった。
自分の信じるところをまっしぐら、というのもなかなかいいんじゃないのかな。間違っていたと気づいたら修正していく姿勢は見習わないといけないような気がする。
サウロはただ単に命令されたから教会を迫害していた訳ではなく、自分の信念で迫害していた、だからこそ今度は自分の信念でキリストを伝えることとなったのだろう。そういう人物だったからこそイエスは選んだのだろうか。もちろん定かではないが。でも信念の人物だったからこそ、その後正反対の立場になってからもしっかりとその道を貫くことができたのではないか。
人に言われたから仕方なくとか、人からとやかく言われないために何かをすることがよくある。周りにいいかっこうを見せるために、本当はしたくないのにするようなところがある。そういう時はまわりの者がどんなふうにしているかすごく気になる。そういうことを繰り返しやっているといつまでたっても自分でこうだと思ってするということができなくなる。
どこかの教会員が牧師に「感謝して献金することができなくなった」と言ったそうだ。そういう気持ちを正直に言う人も偉い人だと思うが、牧師は「感謝できないなら、できるようになるまでするな」と答えた。「でも牧師先生の生活が困ると思って」と言うので、牧師は「牧師は神さまに養ってもらっているんだ」と言ったそうだ。ちょっと勇気が要ったらしいが。実際いやいやながら献金するよりも、いやな時はしない方が後々感謝できるような気がする。
だから何事も信念をもって心で決めてしていけばいいような気がする。したくないときにはしない、という方がいいのかもしれない。
その信念が間違っている時は修正すればいいんだから。自分が信念を持って自分で決めてやっているなら修正も容易なんではないか。
人間は間違う生き物なのだ。私たちは自分が間違っていないと思いたい。そして自分の間違いを認めず、間違っていなかったと思うことで却って間違いにしがみつくような事もある。まずいかなと思いつつ、誰かからおかしいと言われると意地になってやめないでおくなんてこともある。しかしそもそも人は間違う生き物なのだ。だから間違わないことではなく、間違いを正すことが大事なのだ。間違っていると分かればすぐに修正することが大事なのだ。これは間違っている、という自分の信念に素直に従っていくことが大事なのだろう。
回心ということばは心の向きを変えるということだそうだ。心を綺麗に改めるのではなく、戒めるのでもなく、神の方を向いて、神の声に聞いていく、そんな神の方へ向きを変えること、それが回心なのだ。
サウロは三日間何をどう考えたのだろうか。きっと俺の人生は一体何だったのか、今までしてきたことは何だったのかと考えたのだろう。けれども彼はそこにとどまることはしないで次の一歩を踏み出した。向きを変えて、向きを修正して歩き出した。いろんと後悔するような気持ちもあったことだろう。けれどもサウロはこの時から新しい出発を始めた。ほとんど新しい人生を始めたようなものだろう。
私たちも自分の信じる道を、イエスの導く道をまっすぐに進んでいこう。神の声を聞きつつ、間違った時には修正しつつ、神に従っていこう。