聖書:使徒言行録 6章1-15節、7章51-60節
ステファノ
教会の中に不満が起きたことから、教会では食事の世話をするための人を選ぶことにしたという。教会の中で、貧しい人のためにお金などを集めて、それを配っていたらしい。そしてその時に、ギリシャ語を話す人たち、つまりパレスチナから離れていて、また戻ってきた人たちが、ヘブライ語を話す人たち、つまりずっとパレスチナにいた人たちよりも軽んじられていると言ってきたというのだ。教会の中に少し対立があったらしい。
そんな問題が起こってきたために、教会では霊と知恵に満ちた評判の良い人を7人選ぶことになったという。この7人に食事の世話を任せて、12弟子たちは祈りと御言葉の奉仕に専念できるようにしようとしたということのようだ。説教から食事の世話から何もかもやって、苦情が出たらその処理までして、何てやってたらそりょ大変だ。けれどもステファノのことを見てみると、実際にはステファノもユダヤ人と議論をして説教までしているようで、そのせいで彼は殺されてしまうことになる。案外この7人の方が、食事の世話から時には説教もする、あらゆることに目を配る人たちだったのかもしれない。
怒り
ステファノはユダヤ人と議論し、全く譲らなかったために捕らえられてしまい、最高法院に突き出されてしまう。しかしそこで彼はユダヤ人の歴史を語り、最後には、
7:51 かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。
7:52 いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。
7:53 天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。
これなら頭に来るだろう、というような言い方。ステファノはかなり激しい性格の人間だったのかも。これほどまでに直接的に言ったら殺されても仕方ない?
これを聞いていた人々は、悔い改めるのでなく、激しく怒った。図星だったので頭に来たということなのだろうか。罪を指摘された場合、人間はしばしば、それを認めて悔い改めるのでなく、自分を正当化し、非難した者に対して怒る。54節に、人々は激しく怒りステファノに向かって「歯ぎしりをした」とある。そのような激しく怒っている人々を前にしても、ステファノは平然としている。
さらに人々にとっては火に油を注ぐような言葉が続く、
7:56 「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」
人々はステファノを都の外に連れ出し、石を投げて殺した。
ステファノはこんな状況の中でもイエスを見つめていた、と言うのだ。自分を殺す人たちではなくイエスを見ていた。
片やステファノだけを見つめ怒りの炎を燃やす群衆、片や天を見上げてイエスを見ているステファノ。ぶつかり合わない視線。
サウロ
ここでサウロがさりげなく登場する。処刑人たちの衣類の番をしている。しかし後にこのサウロが異邦人に伝道するという大きな働きをする。
競争
ステファノ殉教の発端は人の妬みだった。
6:8 さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。
6:9 ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。
6:10 しかし、彼が知恵と"霊"とによって語るので、歯が立たなかった。
6:11 そこで、彼らは人々を唆して、「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。
6:12 また、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。
自分が議論に負けたということで相手を力ずくでやっつけてしまう。
自分と違う意見の人間がいることが許せない、面倒なやつはのけ者にしてしまえということのようだ。いざとなればどんな手を使ってでも排除しようとする。
議論することが下手なのは日本人の特徴か、それとも個人的な問題なのか。とにかく違う意見を持っているものがいることに慣れていない。違う意見を持ったもの同士がどういうふうに物事を決めていけばいいのかという方法を知らない。同じ人間を望むようなところがある。同じ人間になるように、同じ考えを持つようにと強制するような所がある。
教会もそこから無縁ではないだろう。私たちも何か自分たちと違う人間をのけ者にしてしまいがちだ。完全に拒否はしないまでも大きな壁を作りがちだ。自分たちの望む人でないような人をどれだけ受け入れているだろうか。自分と意見の違う人をどれだけ受け入れているだろうか。
もしかしたら僕たちはステファノの側ではなく、石を投げている側にいるのかもしれない。
淡々
しかしステファノはその暴力的な仕打ちに対して何の抵抗もしていないようだ。淡々と相手のするままにしているようだ。まるでイエスのように。
ステファノにとって議論に勝つとか負けるとかはさほど対した問題ではないようだ。そしてまた人からどのような評価をされるかということも気にしていないようだ。ただ自分の信じるところを淡々と述べているだけ。それを理解しない相手を叱ることもなく、その相手に失望するわけでもない。逆に相手の無理解を弁護までする。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と。
自分が真理だと思って語っていることを相手が分かってくれないとき、普通なら相手が悪いと思うだろう。まして裁判のような席で自分の言うことを誰も信用してくれないとなるとどうなるだろうか。
どうしてだ、どうして分からないんだ、と叫びそうだ。
どうしてステファノは淡々としていられたのか。私はそんな立派なことはできない、とすぐに思ってしまう。確かにステファノは「信仰と聖霊に満ちている」と言われて7人に選ばれたような人であった。しかし彼自身の彼だけの力によってこのような状況になったわけではないだろう。
彼はイエスを見上げていた。そこに彼の力の源があったからだろう。私たちはイエスを見ることをしないで、周りの状況にばかり目を奪われることが多い。周りにいる人たち、うまくいかない状況、不安な心配な事柄、そんなものに私たちは目を奪われてしまいがちだ。そしていつの間にかイエスを神を見ることをすっかり忘れてしまいがちだ。
しかしステファノはずっとイエスを見ていた。そこに彼の力の源があるのだろう。私にはこんなことはできない、私にはこんな信仰はないとすぐ思ってしまう。しかし私たち自身が何を持っているかというよりも、私がイエスをしっかりと見ているかどうか、そこが問題なのだろう。ステファノはしっかりとイエスを見ていた、だからこの状況でも淡々としていられたのだろう。
やっぱりステファノは特別なのだ、ステファノには出来たが私にはできない、と言うとき、やっぱりイエスではなくステファノを見ているのではないか。イエスを見ないでステファノだけを見ているのではないか。それでは石を振り上げているものと同じ見方だ。イエスを見よう、ステファノが見ていたイエスを私たちも見ていこう。
石を持つ側ではなく、イエスを見上げる側にいたい、と思う。