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礼拝メッセージより
説教題:「大胆に生きる」 2002年7月21日
聖書:使徒言行録 4章1-31節
正直
自分に正直に生きている。自分の信念に従って、自分の信仰に従って、自分の信じるところにしたがって生きる、それが大事なのだと思う。不正直に生きていることが多い。そうしなければならない不自由さがこの社会にあるというのも事実かも知れないが。
イエスのように
イエスを信じることでなにもかも自分の思うように事が運ぶわけではない。みんなから認められ賞賛されるとは限らなかった。ペトロたちも、思わぬ反対にあったり、期待することとはまるで反対の待遇を受けるようなこともあったようだ。神殿の中で足の不自由な人をいやしたことに対して、周りの者みんなが彼らを賞賛したわけでもなかった。それどころか、逆に彼らはユダヤ人たち、ユダヤ人の権力者たちから問いつめられ、脅かされるということになったというのだ。いいことをしているのにどうして認めてくれないのか、誉めてくれないのかと思うようなことが起こることもある。いいことをしたらその分自分がいい思いをし、悪いことをしたらその分罰があるとは限らないのがこの世の中だ。自分たちは正しいことを行っている、正しいものを信じている、だから何もかもうまくいくとは限らないのだ。いいことをしたからといって、それを正しく評価されるとも限らない。誰も分かってくれないなんてこともある。いい思いをしたい、みんなから評価されたいという気持ちはきっと誰もが持っているだろう。けれどもいい思いをするために、みんなから評価されるために自分が何かいいことをするとしても、それはなかなかうまく行かない。周りからの評価ばかりを気にしていると、うまくいかないのなから自分だけが正しいことやいいことををしなくてもする必要はないということになりそうだ。
正しいことをしたのに、悪いことはしてないのに十字架で処刑された男がいた。全くの不条理を生き通した男がいた。そして私たちはその男の弟子なのだ。この男に従う道を生きることを優先するのか、それともこの世の中、この社会に認められ、賞賛されることを優先するのか、私たちはいつも問われ続けている。
大胆
ペトロとヨハネは足の不自由な人をいやしたということで議会で取り調べを受けることになった。サドカイ派の人たちは復活はないと主張していた人たちだそうだ。彼らはイエスが死者の中から復活させられたことを宣べ伝えていること、そしてそのイエスの名によって人をいやしたことに危機感を覚えていたようだ。そしてユダヤ教の議会の権威に従うようにと脅迫する。
ユダヤ教の社会の中で穏便に生きるには、その議会に従って生きることが波風を立てない、いい方法である。ペトロとヨハネとはそれを良しとはしなかった。イエスに従って生きることを彼らは貫いていった。彼らにとってはそれが一番いい生き方、それが自分の信念にそう生き方だったのだと思う。誰かにそうするようにと言われていたからそうしたという訳でもなく、そうしないと誰かから嫌われるからそうしたのでもなく、彼らの信仰に忠実に従うこと、信念に従うことだったからそうしたのだと思う。自分の信念に正直に生きた結果がこういうことだったのだと思う。足の不自由な人はイエスの名によって立ち上がるようになった。同じようにペトロとヨハネはイエスの名によって生きていたのだろう。教会の面子のために、教会の人たちから文句を言われないために議会で証言したとしたらそれはとても苦しい大変ことだろう。
もちろん彼らにとってそれは勇気のいることでもあっただろう。どきどきするようなことでもあったのだろう。でも彼らは自分の面子とか評判とかそんなことのためではなく、自分の信じるところに正直に生きていた結果がこの大胆な証言となったのだろうと思う。
祈り
解放された彼らは仲間たちの所へ、つまり教会へと帰っていった。そして一連の出来事をみんなに話した。これを聞いた人たちは神に向かった声をあげたという。彼らは神に祈ったのだ。議会やユダヤ教に対して、また社会に対して文句を言うのではなく祈ったというのだ。
戦時中は日本でもキリストに従うか天皇に従うかというようなことで教会も迫害されたと聞く。キリストこそ私たちの主である、と告白することで捕らえられた者がいたということを聞く。
イエスを信じるということで捕らわれ、その後解放された時に私たちはどうするだろうか。教会へ行くのなんてやめるだろうか。やめなくても、警察の文句を言い、社会の文句を言うだろうか。
最初の教会の人たちは文句をいうのではなく祈ったようだ。それも、守られて感謝します、今度はこんなことがおこらないように守ってください、危険な目に遭うことがないように守ってください、という風に祈ったのではなかった。あなたの僕たちが、つまり自分たちが、思いきって大胆に御言葉を語ることができるようにしてください、と祈ったというのだ。今度は辛い目に酷い目にとらわれの目に遭わないように、ではなくて、大胆に御言葉を語ることができるようにと祈ったというのだ。
私たちも弟子たちのように大胆に生きたいと思う。それは無理してでも神を大事にしているような態度をとるということではなくて、何事にも怖がらないと言うことではなくて、イエスを主とする信仰をしっかりと持てるように、自分の本当に大事にすべき物がなんなのかということを自分がはっきりと知ることができるように、そしてその大事なものを大事にするという、自分自身の信念、信仰に正直に生きることができるようにということなのだろう。不安を抱えたままでも、弱いままでもいいのだと思う。そんな私たちを丸ごと包むようにして支えてくれている神をしっかりと見上げて生きていくこと、自分自身がしっかりするというよりも、神が自分をしっかりと支えてくれているということ、そのことを信じて従っていくことで私たちも大胆に宣べ伝え、大胆に生きていくことができるのだと思う。