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礼拝メッセージより
説教題:「約束の到来」 2002年7月14日
聖書:使徒言行録 2章1-47節
ペンテコステ
ペンテコステとは五旬祭。50日目。過ぎ越しの祭りから、つまりイエスが十字架につけられ、復活してから50日目。ユダヤ人にとってはお祭りであった。その日にみんなに聖霊が注がれた。だから、キリスト教にとってはクリスマス、イースターとペンテコステが大事な日。
その日弟子たちに不思議なことが起こった。聖霊がやってきて、みんなが突然外国の言葉をしゃべりだした。これを異言とも言う。とにかく弟子たちがイエスさまの証人となった。証言を始めた。その証言の中身がみんながびっくりするようなものだったということ。弟子たちが知らないはずの言葉で、「神の大きな働き」(11節)を語った。それを聞いてみんなびっくりしてしまった。しかし神さまのことを説明するのは大変難しい。
聖霊の働き
何で神さまがいるなんて信じてるのか、それは聖霊がそうしたから、と聖書に書いている。聖霊とは神さまの霊、キリストの霊、あるいは神の力、霊として私たちの中に働く神、といってもいいと思うけれども、要するに、神さま自身が僕らにわかるようにさせてくれたから、神さまがいることも分かるし、神さまのことを信じている、と言うことらしい。
じゃ、霊ってのは何なんだろう。心霊写真と言うのがあるように一般には霊とはわけのわからん怖い存在のように思っているが、聖書でいう霊、聖霊とはそんな者とは違うようだ。
では聖霊とは何なのか。難しい話をすると、それは父と御子と聖霊、という三位一体のうちのひとつ、と言うことになる。この三位一体の位のことを難しい言い方だとペルソナと言うらしい。これは何語かよく知らないが、英語のpersonalはその言葉から出てきたらしい。personalというのは、個人のとか、個人的な、とかいう意味らしい。ところで、そのもともとのペルソナという言葉の意味は仮面だそうだ。劇で使う仮面。つまり神さまが三つの仮面を持っている、という風に考えればいいようだ。そう考えると少し分かるような気がする。でもそうするとひとつの仮面を付けている時にはほかの仮面は付けられないのか、なんてことを考えるとやっぱり分からない。何とも理解しにくい。がとにかく神さまには三つのかたちがある、ということだ。
その神さまの霊によって、みんなが外国語を話し始めた。ということが起こった。
で、どうしてそんなことが起こったのか。そんなことが本当に起こるのか。聖霊によって異言を語るということは聖書のほかのところにも出てくる。なんだか本人には意味も分からない言葉が口をついて出てくるということらしい。
異言で語ったり祈ったりできたらかっこいいなと思うこともある。そしたら自慢して見せびらかしてみたいと思ったりする。
愛
パウロの書いた手紙には異言についてこんなことが書いてある。コリントの信徒への手紙一14章2節「異言を語っている者は人にではなく、神に向かって語っています。それは誰にも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。」14章19節にも「しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。」
ガラテヤの使徒への手紙5章22、23節では「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」と言っている。
どうも異言で話させることが聖霊の一番の仕事ではないらしい。聖霊の一番の働きはたぶんそういうことなんだろうと思う。何かとんでもないすごいことができればうれしい、人に出来ないことが自分だけ出来るようなればいいなと思う。空中に浮くとか、誰にもできないようなことが出来るようになれば自慢できる。でも聖霊は、神の霊はそんなことをさせて人の注目を集めさえようとはしていないみたいだ。人がびっくりするようなことをする力も聖霊にはあると言うことも事実だろう。でもさっきの霊の結ぶ実を見ると、みんなをあっと言わせるようなものは何もない。しかも一番に愛がある。愛するようになることが聖霊の一番の働きであるらしいし、教会が一番目指す所なのだろう。何か分からない不思議な出来事を起こすことが聖霊の働きというよりも、相手に分かる言葉を発すること、神のことを分かるようにさせること、イエス・キリストを信じるように導くこと、それこそが聖霊の働きなのだ。
ペンテコステの出来事の後でも、2:42 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。と書かれているように、初代の教会は神の教えと交わりを大切にする集まりとなっていった。
誕生日
ペンテコステは教会の誕生日だ、と言われる。イエス・キリストに約束されて待つように言われていた聖霊によって、弟子たちがまわりに向かって証言を始めた日が教会の誕生日だということだろう。神がいつも私たちと共にいる、ということは、聖霊がいつも私たちと共に働いている、ということでもある。聖霊が働いている、ということはそこに愛があり、喜びがあり、平和と寛容と親切と善意と誠実と柔和と節制があるということだ。みんながびっくりするようなことが起こるときだけ聖霊が働いている、ここにいる、ということではない。この日、目に見えるかたちで、みんながあっと驚くような仕方で働かれた。あの日から、聖霊はずっと働かれている。そしてここで大事なのは、弟子たちがいろんな言葉で語る言葉を聞いた人たちが分かったということだろう。相手に通じる言葉、相手の心の中に届く言葉、弟子たちは聖霊によってそんな言葉を語ったのだ。
コリントの信徒への手紙一12章3節「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」神がいることが分かる、イエスが救い主であると分かる、少しでも分かる、それは聖霊の働きがある、ということ。ここに神がいるということ。
神のことを私たちは聖霊によって分からせてもらっている、というのだ。人間が修行して勝ち取るのではなく、あるいはいっぱい徳を積んでその御褒美としてもらうものでもない。何もない、そのままの私の中に神が働きかけてくださっているのだ。だからまた聖霊が働きかけてくださるそのままに私たちも神を信じ、神が語らせるそのままに神を語り、そして何よりも神が愛されたように愛するようになりたいと思う。家族だけではなく、教会の仲間だけではなく、全世界の人を愛するものとなりたいと願う。
酔う
周りの者から酒を飲んでいると思われるほどだった。ということはそれほど騒いでいたということか、それほど楽しそうだったのか。酒を飲んで陽気になるほどに喜んでいたということなのだろう。それほどの力が聖霊にはあるということだ。初めてのキリスト教会はそれほど魅力的だったのだろう。そしてそれは神の言葉を聞くことによって、また神の力によって聖霊によってそうされていたのだ。だからこそこの日多くの人たちが悔い改めてバプテストを受けたのだろう。
私たちの教会もそんな教会としていきたい、また神によって、聖霊によってそうさせてもらうように祈りたいと思う。