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礼拝メッセージより
説教題:「足下を見つめて」 2002年7月7日
聖書:使徒言行録 1章1-14節
使徒言行録は、ルカによる福音書の続編として、医者ルカによって書かれたものである。最初に「テオフィロさま、わたしは先に第1巻を著して」とあるが、この「第1巻」は、ルカによる福音書のことである。使徒言行録の使徒というのは、イエスの12弟子とパウロを指している。もっとも、実際に登場するのは、前半はペテロ、後半はパウロが主で、他の弟子たちはほとんど出てこない。このペテロとパウロの言った事と行ったこと、つまり、キリストの福音を各地に伝えたことの記録が使徒言行録である。口語訳では使徒行伝という名前になっている。
使徒言行録は、福音がエルサレムから異邦人世界に伝えられ、ついにその当時の中心地ローマにまで、伝えられたことを述べている。そして、そのわざの背後に聖霊が強く働いていることが強調されている。使徒言行録には、聖霊が非常に強調されている。
1:3 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。
「苦難を受けた」というのはもちろん十字架の死のことである。その後「彼らに現れ」たと言われている。そして、イエスが彼らに現れた目的は、「神の国について語る」ことであった。
弟子たちは、これまでイエスと共に生活をし、共に旅をしていたので、「神の国」のことは、イエスから直接何度も聞いていたはずである。福音書を見ると、イエスがいろいろな譬を使って「神の国」のことをしばしば語っている。しかし、復活のイエスはなおかつ彼らに神の国のことを話された。
エマオの途上でもイエスは弟子たちに語り掛けた。旧約聖書から解きおこして語った。この後ペテロや他の弟子たちも旧約聖書からイエスのことを語る。イエスは死から甦ったそんなすごい方だ、だけではなく、旧約時代から約束された救い主だ、ということを語る。つまり神は復活のときだけ力を発揮した訳ではない、いつも私たちと関わりを持ち続けている、ずっと見つめている、ということを教えようとしているようだ。
1:4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。
この「約束」というのは、5節にあるように、聖霊のことである。イエスは、ここで弟子たちに、エルサレムで聖霊が与えられるのを待ちなさい、と言っている。イエスは、今天に上げられようとしている。そうなると、弟子たちは、自分の力で働かなければならない。8節を見ると、彼らの使命は、「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで」イエスの証人となることである。
しかし、ゲッセマネでイエスが捕らえられた時、彼を見捨てて逃げ去った弟子たちにそのような力はなかった。そこで、イエスは彼らに聖霊を約束したのである。ただ、イエスはここで、どれくらい待つのか、その期間は言っていない。それを2、3日待つだけでいいのか、あるいは、1年も2年も待たなければならないのか。
「待つ」ということは、中々忍耐のいることだ。また、不安でもある。その時が分かっている場合でもそうであるから、まして、その時が分からない場合は、なおさらである。ここで、弟子たちは、イエスから聖霊が与えられるという約束はされるが、それがいつかは言わなかった。だから弟子たちは不安なのだ。そこで、それがいつかを知りたい。そこで、その時をイエスに尋ねる。しかし、イエスの答えは、
「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」であった。
とにかく待つというのは大変ことだったろう。自分たちが立派になったあとであるならばそうでもないかもしれないが、自分たちが弱いままで、裏切り者のままで待たないといけないのだ。
1:9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。
1:10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、
1:11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
イエスは昇天された。「天に上げられる」というのは、栄光の姿である。昇天というのは、最も栄誉あることで、大きな奇跡である。にもかかわらず、イエスの昇天の記事は、詳しく記されていない。天に上げられる時、華々しく描きたいと思うのが普通だろう。白馬が来るとか、大勢の天使に迎えられるとか。しかし、ルカはそういう事に余り関心がない。むしろ残された弟子に関心がある。
弟子たちにとって、イエスは絶対的な方であった。イエスが捕らえられた時、恐ろしくて逃げてしまった。しかし、復活の主に出会って、また元気になったことだろう。弟子たちは、イエスが共にいないと非常に不安なのだ。しかし、今再び自分たちを残して昇天してしまった。
彼らは「天を見つめた」とある。弟子たちは、イエスから目を離そうとしなかったのだ。雲に隠れてしまったのに、いつまでも見続けていたという。見えなくなったのにまだ見つめていたというのだ。
いつまでも天を見つめていた弟子たちに天使は「なぜ、天を仰いで立っているのか」と言った。そういつまでも、天を仰いでいてはいけないのだ。地を見つめ、自分たちのなすべき事に励まなければならないのだ。私達も、ただ天を見つめるだけの信仰であってはならない。自分の足下をしっかりと見つめていかなければいけない。
私たちはよく神の力によって自分が別物になることを期待する。立派な強い、何事にも動じない人間になることを期待する。あるいは神の力によって自分の願いが叶って欲しいと思う。教会堂のお金が空から降ってこないかと願う。いろんな人が突然教会に一杯来るようになってほしいと願う。そんな風に天を見上げて何か落ちてこないかと待っているようなことが多いのが私たちの姿でもあるのかもしれない。私たちも自分の足下をしっかりと見つめていかないといけないのだと思う。無力な情けない自分かも知れない。しかし今の自分をしっかりと見つめ、今の自分に出来ることをしていくように、と神は言われているのではないか。教会堂の資金がどこかから降ってくることを願うよりも、自分がこつこつと献金することを考えないといけないのだろう。教会に急に人が増えることよりも、教会に来た人が安心して喜んでいられるような教会を作るために自分に何が出来るかを考えないといけないのだろう。そんなことを通して神は働かれるのだと思う。天から神が降りてきて何かをするのではなく、私たちを通して神は何かをされようとしているのだろう。
昇天したイエスは弟子たちを見捨ててしまったのではない。天から彼らを見守り、またご自分の代わりに聖霊を送ることを約束された。
弟子たちは決して自分たちの力や技量でキリストの証人となり伝えていったのではなく、聖霊によって力を受けたから証人となっていけたのだ。また地の果てまで、と言われていながら、実際にはなかなか異邦人には伝えていけなかった。神から幻を見せられたりしながら、あまり乗り気ではないところを後ろから押し出されて、といった感じで異邦人のところに行った、なんてこともあったようだ。弟子たちも聖霊が降ったからといって突然立派な神のような人間になったわけではなかったようだ。でも神はそんな人間を力づけご自分の証人とされていった。弟子たちも半分いやいやながら神の導きだからと従ったようなところもあったのだろう。でもそこで彼らは神の働きを見て、また体験していったのだと思う。
神は私たちに対してもそんな証人になる、と言われているのではないか。私はあなたを支えている。今度はあなたが私の証人となるのだ。あなたが隣人を愛する者となるのだ、あなたがわたしの愛を伝えるのだ、神は私たちに対してもそう言われているのではないか。