聖書:出エジプト記 20章8-11節、33章7-11節
サービス
モーニングサービス。朝の礼拝? 英語では奉仕も礼拝もサービス。礼拝することは奉仕することでもあるということか。
安息日
一週間の内の他の6日とは違う日。聖別するということは特別に分けておくというような意味である。聖別されるということは、それがきれいなものであるということではなくて、特別に分けられているということである。
旧約聖書では、7日目を特別な日、そしてそれは安息日としなさいといわれる。休みなさい、日常の仕事をその日は休みなさいというのだ。またそれは金持ちで余裕のある人だけに言われているわけではない。何人もの使用人を使っているような主人だけが休んでいいということではなく、使用人も奴隷もどんな人間も休まないといけないと言われているのだ。主人としては休まず働かせたいいうのが本音だろうがそれは許されない。どんな人間もその日には休めという。それが神の戒めであるというのだ。
毎日の忙しい生活に追われている私たちに対しても、一週間の内の一日は休めと言われているのかもしれない。キリスト教会の多くは土曜日ではなく、イエスの復活の日ということで日曜日を特別な日としてその日に礼拝してきた。旧約聖書でいわれている聖なる日、聖日は土曜日であるが、多くのキリスト教会は日曜日を大事な日とし、日曜日を主イエスの日、主の日、主日という言い方をしている。ということで主日に礼拝する。
よし
そして礼拝は神の前に出るということ。神の声を聞くこと。主日礼拝はみんなで神の前に出て神の声を聞くこと。イザヤ書43章4節には、「わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする。」と書かれている。わたしの目にあなたはとても高価で貴い者だ、わたしはあなたを愛している、という神の声を聞く、それが礼拝なのだろう。私たちの現実の姿はそんな価値のあるような者とは思えない。立派な生活をしているわけでもない。それどころかまるで駄目な罪深い生活を送っているのが現状だろう。神を信じることで立派な人間になったというわけでもない。すべてが順調にいくようになったわけでもない。あらゆることに心配しなくなるわけでもない。いつも希望をもって明るく生きてるわけでもない。誰とも仲良くできて誰ともうまくやっているわけでもない。
反対に私たちは相変わらずいろんなことに心配し、うまくいかない現実を呪い、自分にやさしくしてくれない社会や自分を傷つける周りの者を恨み、そしてまた自分も人を傷付けている。そしてまたそんな自分を自分でも嘆く。自分のだらしなさや罪深さを嘆く。そんな悶々とした生活を送っている。それが私たちの現状だろうと思う。結構うまくいっているときはそんなにまで思うこともないかもしれないが、ちょっとしたひとつのことに打ちのめされてしまう。自分の背負っている重荷のあまりの重さに押しつぶされてしまう。こんな現実から抜け出したい。こんな自分から抜け出したい、全く違った自分になりたいとさえ思うほどだ。
しかしそんなだらしない、駄目な、罪深い私たちに対して神は、あなたは私にとっては高価な存在なのだ、尊いひとりなのだというのだ。そしてこんな私を愛しているというのだ。お前は自分のことが嫌いで嫌いで仕方ないかもしれない。そんな自分のことをとても認められない、こんな自分では駄目なのだと思っているかも知れない。しかし私にとってはあなたはとても高価なのだ、とても価値があるのだ、今のそのあなたが大事なのだ、そのあなたをわたしは愛しているのだ、神はそう言われている。その神の声を聞く、それが礼拝なのだろう。
だから礼拝はありのままの自分で神の前に立つということだろう。神が私たちのところへ来て下さった、イエス・キリストとして私たちのところまでおりてきてくれた、その私たちの生きている場所で神と出会い神の声を聞く、それが礼拝なのだと思う。だから礼拝は私たちが普段の自分とは違う自分として神と出会うのではないと思う。主の日は特別にとっておく日であるけれども、その日だけ特別の自分として神と出会うという訳ではないと思う。日曜日だけはきれいは心になって礼拝に行き、すがすがしい気分で一日を過ごしなさいということではないだろう。自分の罪も重荷も、またどろどろとしたあらゆる思いを持って神の前に出る、それが礼拝なのだ。特別な自分になるのではなく、そのままの自分でいいのだ。そしてそこで神の声を聞いていく。あなたはとても大事な人間だ、あなたを愛している、あなたの罪は赦されている、その神の声を聞いていく。私たちはいろいろな荒波にもまれて神の声を忘れがちである。神に大事に思われ愛されていることも忘れがちな人間である。すぐ忘れてしまう人間である。だからそのことを礼拝で確認するのだろう。私たちのすべてを神の前にさらけ出す、そしてその私たちに語りかける神の声を聞いていくのだ。
だから礼拝は休んではいけないから行くようなものではない。礼拝を休んだという負い目を感じないために行くようなものではない。それではとても勿体ない。礼拝には一番いい服を着ていかないといけないわけではないだろう。そう思う人はそうすればいいと思うが周りにまでそれを押しつけることはないと思う。ネクタイがいるかどうかなんてことを言う人も多いそうだがそんなことはどうでもいい。そこで自分が神の前に出るかどうかだ。神の前に自分を差し出すかどうかだ。そして神の声を、あなたは大事だ、あなたを愛しているという声を聞くかどうか、それが大事なのだ。
献金は献身のしるしであると言った。神の前に自分を差し出すということの象徴でもあると思う。悪口を言うようだが、礼拝の献金の時によく「この献金はほんのわずかなものである」というようなことを聞く。でも自分を差し出すときに多くも少なくもない。自分が神の前に出るか出ないかというだけである。わずかなものだけ、指一本だけ神の前に出る、なんてことはしないだろう。自分の抱えている重荷も罪を全て抱えて神の前に差し出すのだ。そして神の声を聞いていくのだ。
そして神の言葉によって私たちは赦され、癒され、励まされる。神の言葉によって生かされていく。そこから私たちは神の声に応えていくのだ。きっとそこでは自分さえ元気になればいい、自分さえいい気分になればいいということだけで終わりとなるということはないだろう。私たちは自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさいとも言われている。私たちはひとりだけで礼拝しているわけではない。みんなと一緒に礼拝しているのだ。一緒に礼拝している者たちのことを愛しなさいと言われているのだろう。そして今は一緒に礼拝していない人のことも愛しなさいと言われているのだろう。神は私たちを等して神の愛をこの世の中に広げようとされているのだろうと思う。その愛の使者になるようにとも言われているのではないか。
そのために何よりも私たちは自分自身が神に愛されていることを知らないといけないのだろう。毎週毎週神に愛されていることを知る。それは一番大きな恵みなのだと思う。そして自分自身で自分を愛するようになりたい、神に愛されている自分を自分でも愛するようになりたい、そして隣人を愛する者となりたいと思う。
礼拝する者、サービスする者は、今度は奉仕する者、サービスする者でもある。本当に受ける者は与える者でもある。