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礼拝メッセージより
説教題:「思いのまま?」 2002年6月23日
聖書:出エジプト記 32章1-35節
偶像礼拝
像を作って拝んではいけないといわれていたイスラエルの民。ところがそのいけないといわれていたことをやってしまうのが人間ということか。
モーセが帰ってこないからあいつはもう死んだに違いない、と彼らは思ったのだろう。モーセがいなくなったということは、モーセの語る神がいなくなったということなのだろうか。
アロンはみんなに金の耳輪をはずさせて、その金で若い雄牛の鋳造を作った。そしてこれが私たちをエジプトから導き上ったあなたの神々だ、といったというのだ。その金はエジプトを脱出するときにエジプト人からもらった物だ。いわば戦利品のようなものだろう。エジプトを脱出するときに神はいろいろな災いを起こした。イスラエル人を早く去らせないと次は何が起こるか分からないというようなことで、エジプト人はイスラエル人の求めに応じて金を差し出したのだろう。だから金はイスラエル人にとっては自分たちが解放されたという象徴のような物でもあったのだろう。その金で彼らは若い雄牛の鋳造を作った。そしてそこで献げ物をし、飲み食いし戯れた、というのだ。そしてそれが神の怒りに触れて、偶像崇拝をした人を処刑するように命令される。
偶像崇拝とは像を拝む仏教などの宗教のことで、キリスト教はそうではないから自分たちとは関係のない話しというようなことを聞くことがある。偶像崇拝をしないようにしましょうというときに、キリスト以外の仏教などの宗教行事、儀式をしないことというような言われ方をすることがある。
こんな話しがある。ある教会の役員をしている人のお父さんが亡くなった。そのお父さんは教会員でもないのでお寺で葬儀をすることになった。そして家族が話し合って教会の役員をして長男が喪主をしなさいということになった。ところがそこの教会の牧師は、教会の役員ともあろうものが仏教の葬儀の喪主になどなってはいけない、それは偶像崇拝を推奨することだ、というようなことを言ったそうだ。そこで長男は家族と牧師の板挟みになって悩んでしまった。そしてとうとう葬儀の時には行方不明になってしまったそうだ。
キリスト教意外の宗教に関わることが偶像崇拝なんだろうか。他の宗教に関わらなければ偶像崇拝をしていないのだろうか。多分そんなことではないと思う。よくお寺の葬式に行って焼香をしていいかどうか、というようなことを聞かれる。それは偶像崇拝になるのかどうか、というようなことだ。それがお寺の葬儀のしきたりに入っているならばすればいいと思う。教会の葬儀の時に、俺はクリスチャンじゃないから讃美歌は歌わない、と言われると困ってしまうが、焼香は罪だからしない、と言うことはそれと似たところがあると思う。
イスラエルの人たちは神の像を作った。そして神から怒られ、神を信じるのか、牛を信じるのかと問われている。しかし彼らは全く別の神を拝もうとしたわけではなかった。エジプトから自分たちを導きだした神、その神の像を作ったのだ。別の神に乗り換えた訳ではなかったのだ。別の神を拝んだから怒られた訳ではなかったのだ。
では何が悪かったのだろうか。どうしてそんなに怒られたのだろうか。
偶像崇拝とは、もちろん神の形を作って拝むということでもある。しかしそれだけではなく、人間が神を作ってしまうこと、人間が神を管理してしまうこと、人間が神を支配してしまうことということでもあるのではないかと思う。人が神を目に見えるものにしてしまう、そして神がこういうものであると思ってしまうことで、神とはこういうものであると人間が勝手に作ってしまうこと、それが悪かったのではないかと思う。神に創られた人間が、今度は自分たちが勝手に神を作ってしまう、それこそが偶像崇拝ということなのではないかと思う。
そうすると目に見える像を作る事だけが偶像崇拝ではなくて、目に見えない、自分の心の中に像を作ることも偶像崇拝といえるのではないか。神さまはわたしをお金持ちにしてくれるはずだ、わたしを病気にさせないはずだ、わたしの家族を自分の言うことを聞く素直な人間にしてくれるはずだ、憎らしいあいつをこらしめてくれるはずだ、私たちは神さまのイメージを勝手に作りがちだ。わたしの願いを聞いてくれてこそ神なのだ、神は私の願いをかなえてくれる者なのだ、そんなイメージ、そんな自分勝手な像を私たちも自分の心の中に造ってしまうことがある。それこそが偶像崇拝なのだと思う。神を自分の思いのままに何でもかなえてくれるロボット、まるでドラえもんのように思ってしまうこと、そして自分の思うようにいかないと文句を言い見向きもしなくなる、それこそが偶像崇拝ということなのではないか。
私たちは広い海を航海しているようなものではないかと思う。神という大きな船の船底に乗って航海しているような感じかな。船底にいるのでどんな大きさの船かも分からない。大きすぎて分からない。だからときどきこの船で大丈夫かと心配になる。そこで救命胴衣をつけて、この救命胴衣こそ自分を守ってくれる。大きな船の船底で、救命胴衣を握りしめて、これこそが自分たちの救い主だ、と言っている。沈まない船には安心できずに、救命胴衣で初めて安心する。自分の乗っている船を忘れて、その救命胴衣を神とすること、偶像崇拝というのはそういうことなんではないかと思う。
私たちは神の中に生きている。神の大きな手に支えられて生きている。あまりに大きすぎて時々その神の支えが分からなくなってしまうこともある。何かしがみつけるものが欲しくなってしまうこともある。自分の全てを包み込んでくれていることが不安になって、何かにしがみついていないと安心できなくなってしまうこともある。けれどもやっぱり私たちは支えられているのだ。私たちが気が付かないときも、忘れてしまうときも、そして何かにすがりつく元気がないときにも、神が私たちをしっかりと支えてくれているのだ。
神は見えない、全体像も分からない、ドラえもんのように自分の思い通りにはしてくれない。でも全てを支えてくれている。私たちを愛し憐れんでくれている。