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礼拝メッセージより
説教題:「神が共に」 2002年6月16日
聖書:出エジプト記 25章1-9節
幕屋
出エジプト記は25章から幕屋を建設するという話しが延々続く。寸法はいくらにして、どういう形にして、どんな飾りをどんな風につけて、なんてのが事細かく書かれている。出エジプト記の4割がこの幕屋の作り方なのだそうだ。
創世記のノアの箱舟でもそうであるが、聖書は縦何メートル、横何メートル、高さ何メートル、というふうに全部文章で書いている。25:10以下もそうだ。こんな数値に関係することでも全部文章なのだ。そんなことしたら相当な分量になっても不思議ではない。今新会堂の建築をしているが、会堂のどこをどんな風にするか、どこに窓をつけてどこに柱を立てて、どこにどんな電灯をつけて、どこにクーラーとつけて、ドアはどんなものにして、なんてのを全部文章にしてたら大変なことだ。こういうところを見ると、どうして図面にしなかったのだろうか、と思う。神さまからFAXで図面を送ってもらえばすごくわかりやすかったんじゃないかと思う。神はFAXを持ってなかったのか。モーセはもちろん持ってなかっただろうが。
神が建設しなさいという幕屋とはささげものをささげる場所。そして神がそこにいるという場所でもあった。そしてその幕屋を建設するための材料は、みんなの心からのささげるものだった。自分から進んでささげる物によって幕屋を作れというのだ。
私たちも新会堂を建築するために献金した。そして全国のいろんな教会、いろんな人たちからも支援してもらっている。教会としてはいろんな所からいっぱい献金して支援して貰えれば嬉しい。それだけ借金も早く返せると思う。地震で被害を受けたから助けて貰っているわけだが、でも実際うちよりも多くの借金をしている教会が支援してくれているのだ。うちよりも小さな教会が助けてくれているのだ。借金があっても、小さくても、もちろん大きな教会も、それぞれに心からささげようという思いがあってそうしてくれているのだと思う。
そして私たちも心からのささげものによって私たちの教会を建てている、と思っている。違う?幕屋を作るために、金や銀や青銅、いろんな色の毛糸とか毛皮などなど、いろんなものをささげることで幕屋ができる。みんながそれぞれに自分の持っている物をささげることで幕屋はできる。みんなが同じ物をささげたのではできない。みんなが金ばかりささげてもでいない。教会でもそうだ。みんながいろいろな賜物を出し合うことで教会が教会となる。それと似ている。
心からのささげものによって幕屋はできる。今では献金によって教会は支えられている。献金も心からのささげものである。心のない献金というものはない、というか献金は心そのものだろう。心とは自分自身なのだ。だから献金は自分自身をささげるということでもあるのだ。ただ嬉しいことがあったからその分お金を出すというのが献金ではなくて、自分自身を、自分の全てをささげる、そのしるしが献金なのだ。
献金とは、自分はどこか神とは別の所にいて、神がちょっといいことしてくれたからそのお礼に少しお金をあげましょう、ということではない。子どもが手伝いをしてくれたからお小遣いをあげる、というのとは違うのだ。そういうふうな感謝のしるしではなくて、これから神と共に生きる、自分はすべて神のものである、自分自身を神のもとへ持っていく、そんなしるし、それが献金なのだろうと思う。
いつも共に
そういう心からのささげものによって幕屋を作りなさいといわれる。
その幕屋は移動可能な物。イスラエルの民が移動する場所へそのまま移動できるというもの。どこへ行っても一緒にいるということだ。神は、わたしは彼らの中に住むであろう、という。幕屋の中に住むというわけではないが、彼らの中に住むという。イスラエルの民といつもどこにいても共にいる、そのための幕屋だというのだ。そしてイスラエルの民が神といつも共にいるための幕屋でもある。
私たちの教会堂を作っている。もちろん神がその教会堂の中に住むわけではない。しかしそこで私たちは神を礼拝し、神と共に生きるのだ。
私たちのささげた献金で教会堂はできている。そして私たちのささげる賜物によって教会ができる。神と共に、そして隣人と共に生きよう、という心のこもったささげものをすることで教会ができる。そうやって自分の賜物をささげることで初めて教会となるのだろうと思う。
わたしは彼らの中に住む、と神はいわれる。私たちの中にも住まれているはずだ。イスラエルの民がこの後順風満帆に行ったわけではない。いろんな苦難や試練があった。でもそんな中で神と出会い、神に聞いていった。幕屋はまさにその場所であった。私たちも神と出会い、神に聞く、そんな教会堂を、そして教会を作っていこう。