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礼拝メッセージより
説教題:「十戒その2」 2002年6月9日
聖書:出エジプト記 20章12-17節
人間関係
宗教戦争と言われる戦いがある。アイルランドではカトリックとプロテスタントが争い、パレスチナではユダヤとイスラムが争っている。
ユダヤ教もイスラム教もキリスト教も旧約聖書を大事にしている。そしてその旧約聖書にはここにあるように殺すな、と書かれているのだ。実は本当は宗教戦争というのは宗教の名を借りた戦い、争いでしかないのだろうと思う。
神を信じるということは、ただ神と自分との関係を持つということだけではない。神を信じることと、人間関係とは直結している。十戒の前半は神を神とするように、唯一の神のみを神とするように、そして安息日には仕事を休んで神の日として分けておくように、ということであった。それに続けて後半は人間的な関係をどうすべきなのかということが語られる。父母との関係、隣人との関係をどうすべきなのか、ということが語られる。神を信じるということは、神との関係を大事にすることでもあるし、同時に隣人との関係を大事にすることでもあるのだ。
父母
その中で初めにあなたの父母を敬え、と言われている。そうすれば神が与えられる土地に長く生きることができる、と言うのだ。
父母を敬うということが当然のことだと思う人もいるだろうし、そんなことは考えられないという人もいるだろう。親に愛されて大事にされてきた子どもは親を自然に敬うのかもしれない。しかし親に虐待されてきた子どもは親に憎しみを持っている。そんな子どもに対して、ただ聖書に書いているから父母を敬いましょう、と簡単には言えないだろうと思う。
十戒はただ子どもに対して父母を敬えと書かれているが、案外そんな関係になるように子どもを育てなさいということも含んでいるのではないかと思う。自分の子どもに大事にされたいと思うならば、自分の親を大事にしなさい、そうすればそれを見ている子どもも同じように自分に接するようになる、というようなことも聞く。
親子の関係は一番基本的な人間関係だろう。しかしその関係が必ずしもうまくいっているとは限らない。親子の関係がうまくいかないことから、その他のあらゆる人間関係をうまく持てなくなるというようなこともあるそうだ。
親を敬うことは幸せな事である。親を憎むことは自分の人生を憎むということに近い事だと思う。親を敬うことの難しい人がこの世の中にはいっぱいいる。そして私たちはその人たちを裁くのではなくて、けしからんと言って切り捨てるのではなくて、敬えない気持ちを理解することが大事なのだと思う。そして親を赦し、敬うことができるように助けとなることが大事なのだろうと思う。
むさぼり
それに続いて殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、欲するなと言われる。隣人の命も妻も取ってはならないというのだ。
どうして人を殺してはいけないのか、一時そんなことが話題になったことがある。でもよく考えるとその理由が何なのかというのは難しい。当たり前じゃないか、ということではなくて、これこれこういう理由で殺してはいけない、というのはなかなか難しいことではないかと思う。
聖書では十戒ではただ殺してはならないと言う。きっとそれは、命は神が創られたから、命は神のものだから、だから人間がそれを勝手に奪ってはいけない、ということなのだろう。
続いてある、姦淫するな、盗むな、偽りの証言をするな、欲するな、ということも、相手の人間性、相手の人格を尊重し、相手の領分を犯すことをしてはならない、ということなのだろう。
私たちの心の中にはいろいろな欲望が渦巻いている。あれも欲しい、これも欲しいと思う。これが手に入ればどんなに嬉しいだろう、あれを買えばきっと幸せになるに違いないと思う。そして実際にそれを手にすると次第に喜びは減ってきて、今度は次の物が欲しくなってしまう。そしてそれは結局は行き着く先はないようだ。物を持つことで自分の物は増えていく。自分の物が増えるときは嬉しいものだ。人に自慢もできる。けれども物を持つことで幸せになるということは結局はないような気がする。人間の欲望は底なし沼のように何でもかんでも飲み込んでいって、これで満足ということはないような気がする。案外何かを手に入れれば入れるほど、欲望は余計に広がっていくのかもしれないと思う。
人は神と良好な関係を持つことと同時に、隣人との良好な関係を持つことが大事な事である。そこに喜びがある。
物を持つことによる喜びとは比べ物にならない喜びがある。だからこそ隣人との関係を大事にしなければならない。
相手のことを省みず自分の欲望だけを追求することで人は相手を傷つける。そして相手を傷つけるだけではなく、自分も自分の欲望に飲み込まれてしまう、自分の欲望に支配されてしまう。人間には誰にもそんな性質がある。わたしはこの十戒を破っていないから大丈夫だ、といえる人はきっといない。イエスは心の中に思うことは罪を犯したことと同じなのだと言った。気が付くと欲望に支配されてしまうのが人間の常なのだ。十戒は、そして聖書の律法は、自分が守れているかどうかの判断基準としてあるというよりも、自分がどういう方向へ進んでいくべきなのか、どんな思いで生きるべきなのか、そのことを教えてくれている、その方向を示してくれているものなのだろう。
そしてイエスはその律法について、一番大事なのは神を愛し隣人を愛することであると言われる。律法で大事なのは、自分が守れているかどうかということではない。自分が合格かどうかが大事なのではない。そうではなく、自分が神を愛し隣人を愛していこうとすることが大事なのだ。自分一人がどうであるかではなく、自分と神、自分と隣人というような関係がどうであるか、それが大事なのだろう。
またイエスは、「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」と言った。律法と預言者とは結局は旧約聖書のことである。人にしてもらいたいと思うことを人にすること、結局はそれが旧約聖書が言っていることなのだ、というのだ。
私たちはなかなかこのイエスの声が聞こえない。そしていろんな所で争っている。命を奪い合っている。神の名の下で戦争をしているのが私たち人間の現実だ。聖書の語る言葉よりも別の世の中の理屈の方が大事にされている、そして欲望や憎しみに縛られているようだ。確かに弱い人間である。憎しみに支配されてしまいやすい。しかしそこで結局泥沼にはまり込んでしまっている。その泥沼から抜け出すように、神はそう言われているのではないか。泥沼から抜け出るために、泥沼にはまらないためにこうしなさい、聖書はそう私たちに告げているのだと思う。
神の声をしっかりと聞いていこう。