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礼拝メッセージより
説教題:「十戒」 2002年6月2日
聖書:出エジプト記 20章1-11節
礼拝
クリスチャンになると日曜日には礼拝に行かなければいけないし、献金もしなければいけないし、聖書も読まなければいけないし、お祈りもしないといけない、というような話を聞くことがある。なのになかなかそれができない自分は落ちこぼれのクリスチャンだ、というようなことも聞く。
そんな風に、あれもこれもそれもしなければならない人間になることがクリスチャンになることであるならば、誰がクリスチャンなんかになるだろうか。クリスチャンとはいろんなしがらみに縛られるようになるということだろうか。
戒め
確かに聖書には戒めが色々と出てくる。十戒なんてのはその総元締めみたいなものだろう。しかし色々と出てくる戒めは人を縛り付けるためにあるわけではないと思うのだ。そうではなく、人が神との関係を持つため、神との関係を保つためのものなのだと思う。
守らないものを罰するためのものでもなく、逆に言えば自分はこんなに守っているぞ、と言って威張る筋合いのものでもない。
人は神との関係を持つことに意味がある。それが大事なことなのだ。それが喜びでもあるのだ。そういうことを人に知らせるためのものなのだ。その大事な関係を損なわないようにするための戒めなのだ。
だから、守れない私はなんとだめな人間なのだろう、というように自己嫌悪に陥らせるために十戒があるわけでもないだろう。あるいはまた、そんな風に神を第一にしてないあいつはだめな人間、だめなクリスチャン、ちゃんと礼拝を休まない自分は立派なクリスチャンというふうに、人を裁くためのものでもないだろう。
そうではなく、あの人もこの人も自分も、正しい道を歩むために、充実した人生を送るために、しっかりと神のことを第一として、神の声をしっかりと聞いていきなさい、それがあなたにとっても私にとっても大事なことなんだ、ということを知らせてくれている、十戒はそんな戒めなのだろうと思う。いわば恵みの戒めなのだろう。恵みの中にいるためにこうしなさい、ずっと恵みの中にいなさい、と勧められている、そんな戒めなのだろう。
律法主義
しかし長い年月が経つうちに、だんだんと中身よりも外側を、形を守ることが大事になってきたようだ。戒めなんてのはだいたいそういうふうになる宿命にあるのかもしれないが、それを守れるものと守れないものとを区別するものさしとなってきたようだ。守っている自分はいい人間、守れないあいつはだめな人間、あるいは反対に守れない自分はだらしない人間、なんて思う。十戒は、誰かをいい人間かだめな人間かと判断するための道具ではないはずだと思う。そうではなくその人が神を見上げ、神の声を聞くようになるため、神との関係を持ち続けるためにそうしなさい、と教えているものだろう。
偶像崇拝
十戒の中には、わたし意外のものを神とするな、また神の像も作るな、拝むなという、いわゆる偶像崇拝をしてはいけないということが出てくる。神でないものに従うこと。直接的には何か像を作ってそれを拝むことが偶像崇拝である。だから像を拝んでいるあいつらはけしからん、ということかもしれないが、そればかりではない。神でないものの声を聞くこと、神の声よりも神でないものの声のほうに従うことも偶像崇拝だろう。
社会の常識やならわしを守ることをとても大事にすることが社会的な人間のすることであるといわれる。それはそうだが、社会的に周りにうまく同調して生きることが第一のこととなってしまって、そこに神の入る余地がなくなるなんてこともある。そもそも日曜日に教会に行く、毎週礼拝に行くなんてのは社会の常識に逆らっていることだ。もちろんただわがままに生きることが大事なわけではないし、社会に逆らって生きることがいいというわけではないが、神の声を第一として聞いていくということよりも、社会の常識に従うこと、周りと同じにすることの方を大事にしているとしたならば、神でないものを神のようにすることであって、それは偶像崇拝をしていることと変わりはない。
しかし悲しいことに私たちの中にもいろんな社会的な常識というようなものの見方が染みついてしまっている。社会的に立派だとされているような人、医者や弁護士や政治家は大切にするが、社会的に見下げられている人、ホームレスの人や若いのに定職に就いていない人や何の生産性もないような人、障害を持っている人などとはあまり関わりたくないなんていう思いがある。なんだかそんなモノサシに縛られている。そんな人たちが教会に来たときに、教会の役に立ちそうな人、お金をいっぱい持っていそうな人たちや何か教えてくれそうな人たちにはいい顔をして、面倒なだけのような人たちに対しては誰かが相手をしてくれればいいのに、なんてことを思う。悲しいことにそれが私たちの現実だろう。そんな差別の心を私たちも持っている。
しかしイエスは娼婦や徴税人たちといつもいっしょにいた。障害を持っていることで社会からのけ者にされている人たち、また子ども達を大事にした。社会にとっては何の役にも立たないような、それどころか、邪魔でうるさくてわずらわしいだけのような者のことを、神の国はこのような人たちのものだと言っているのだ。教会でちょっと子どもが騒ぐと彼らを別の部屋へ追い出すというのが教会の常だ。静かにしとかなければならない、大人の迷惑にならないようにしとかなければならない、それが社会の常識だ。でもそれは本当に神の思いなのだろうか。イエスがそうしろと言っているのだろうか。イエスは世の中の常識をひっくり返すようなことを言っている。でもそのイエスの声を私たちはどれほど聞いているだろうか。そのイエスのいうことに逆らって、社会的な常識を優先させているとしたら、それは偶像崇拝というようなことになるだろう。偶像崇拝は自分とは関係がない、それは他の宗教の人たちのことだ、というように考えているクリスチャンもいるみたいだが、神の形の像を造ってはいない、それを拝んではいないからそれで偶像崇拝とは関係がない、と簡単には言えないのだろう。
安息日
また安息日を聖別するという戒めがある。その日には労働をしてはいけないということになっていた。エレベーターのボタンを押すのも労働になるということになっていて、安息日にはイスラエルのヘブライ大学のエレベーターは人の乗り降りには関係なく一階ごとに全部止まるようにして自動運転している、という話しが今でもテレビのクイズ番組にも出ることがある。何だかお笑いの種になっているが、戒めを破らないことを追求していくとこんなことになるのだろう。
労働さえしなければ戒めを破らないですむわけだが、しかし安息日とは本当はただ労働をしない日ではなくて、労働をやめて神の前に静まる日ということなのだと思う。
私たちはいつも何かに追われて、いつもいろんなことを考えて生きている。あれもこれもそれも、しなければいけないことがいっぱいある。そしてえてしてそのいろんなものに流されていつもいつもそわそわいらいらしてしまう。そうするとじっくりと静まって神の声を聞くこともできなくなってしまう。聖別するというのは、特別にとっておく、分けておく、というような意味なのだそうだ。普段の生活とは違う別の日として、仕事をひとまずやめて、脇に置いて静まる時、それが安息日なのだろう。だから神の前に静まることが本来の安息日なのだと思う。それを抜きにしてただ仕事をしないということでは、本末転倒だろう。そうなるとあいつは守っていない、俺は立派に守っている、なんてことになってしまうのだと思う。神の前に静まりじっくりと神の声を聞くこと、それは恵みなのだ。だから安息日の戒めは恵みを受けなさいという誘いなのだと思う。
戒め
そんな風に神の戒め、律法は神の恵みの中にいるようにという誘い、恵みからこぼれないようにという道標なのではないかと思う。自分が守れているときには人を裁き、自分が守れてないと思うときには自分を裁いてしまうけれども、この神の戒めは裁く道具としてあるのではないだろう。ここまでは合格、ここからは不合格というような境界線を定めるためのものではないと思う。そうではなく、山に登るときの、頂上はこっちと書いている標のようなものだと思う。神に従う方向はこっち、神の恵みはこちら、というような道標のようなものだと思う。だから自分はどっちなのかといって足下の合格か不合格かの境界線を探しても仕方がない。多分そんな境界線はないのだ。自分がどこにいるかよりも、神を見ているかどうか、神をむいているかどうかそれが大事なのだ。そのための戒めなのだと思う。