前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
説教題:「わが旗」 2002年5月26日
聖書:出エジプト記 17章8-16節
神の導き
神の導きによってエジプトを出てきたイスラエルの民。しかし神に導かれているといっても何もかも順調にうまくいっていたわけではない。何もかも思い通りになっていたわけでもない。みんながいつも協力的で、不満も不平もなく、いつもいつも感謝です、といっていたわけではない。
17章の前半を見ると、民がレフィディムという所に来たときに水がないことでモーセに不平を言ったことが書かれている。渇きで殺すためにこんなところに連れてきたのかと言い、モーセを殺そうというようなことにまでなっていたということだ。その後モーセが岩を打つことで神が岩から水を出してくれはしたが。
神の導きがあるということは、決して不平も不満も起こらないということではないらしい。殺してしまえというようなことまで起こってくることもある。この時民は、「果たして、主は我々の間におられるかどうか」と言ったという。しかし神の導きはそれで消えてしまうわけではない。
戦い
そして、神に導かれている旅路の中には戦いもあった。エジプトを出てからレフィディムという所へやってきた。その時アマレクがイスラエルに戦いを挑んできた。アマレクはユダの南の遊牧民で、イスラエルを攻撃した最初の民だそうだ。そしてこの時以降も何度もアマレクはイスラエルを脅かす民だったそうだ。
この時モーセはヨシュアに向かって、男子を選び出し、アマレクとの戦いに出陣させるようにと命じる。そしてモーセ自身はアロンとフルという人と一緒に、丘の頂きに立った。そこで戦況を見ようということなのだろう。モーセは神の杖を手に持っていったという。
ところが、モーセが手を挙げるとイスラエルは優勢になり、手を下ろすとアマレクが優勢になった、という。そんなのありか、って感じだが。一体どの位の時間手を挙げていたのだろうか。ずっとあげていると手が疲れてきて重くなってくる。そうしたら、モーセと一緒に来ていたアロンとフルは、モーセが座れるように石を持ってきて座らせて、モーセの手が下がらないようにその手を支えた、というのだ。日が沈むまでそうしていたというのだから相当長い時間手を挙げたままだったのだろう。
モーセは戦勝記念ということでもあったのだろう、そこに祭壇を築いて、「主はわが旗」と名付けたという。
手を挙げていると優勢になって、降ろすと劣勢になるんなんてのは一体どういうことなのだろうか。手を挙げることで不思議な力が出てくるのだろうか。でもそんなことは考えにくい。あるいは手を挙げている時だけ神が助けてくれるのだろうか。そんなこともおかしなことだろう。手を挙げることで自動的に神の力を利用できるなら便利かもしれないが、それでは神は人間の道具になってしまって、もはや神ではなくなってします。
では手を挙げることで優勢になるとはどういうことか。ある人は、モーセの手や杖に関して、戦いの中で働いている神のみ手を兵士たちに保障するのみならず、神がそこにおられるというモーセへの信頼を保障するものであると言っているそうだ。
モーセの手が挙がっていることは神がそこで働いていることをみんなに保障することになった。そこに神がおられることをモーセの手が挙がっていることによって知る、そして神がいることを知って安心し元気になり力を発揮することになったのだろう。そしてそのことを知らせるためにモーセは手を挙げ続け、アロンとフルはそれを助けたのだろう。
神の杖
モーセが持っている杖は自分の持っていた普通の杖だった。その杖を用いて神はいろんなしるしも見せてきた。そしてその杖は神の杖と呼ばれるようになった。
もちろんその杖に神が宿っているわけではない、その杖に神の力が宿っているわけではない。只の杖であることに変わりはない。しかし杖は神の働きのしるし、神が自分たちと共にいる証しとなった。モーセが手を挙げるということも同じようなしるしだったのだろう。そして神がそこにいることを知ることで民は力を発揮していった。神の戦いを戦ったのだ。
神の戦いは、神が姿を現して敵をやっつけるというようなものではない。実際に戦ったのは民なのだ。
人間がなにもしないでいいようにすることが神の導きではない。人間が何も手を出さなくていいのが神の戦いでもない。モーセを通して、ヨシュアを通して、イスラエルの民を通して神は戦うのだ。そして彼らを通して神は道を開いていく。