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礼拝メッセージより
説教題:「つびやき」 2002年5月12日
聖書:出エジプト記 14章1-31節
窮地
やっとエジプトから出てきたイスラエル人たち。ところがエジプトの王ファラオはイスラエル人たちを去らせたことを後悔してしまう。そしてイスラエル人たちを連れ戻そうということなんだろうか、それとも処刑しようということなんだろうか、どっちかよく分からないけれども追いかけていく。エジプト軍は馬と戦車と騎兵と歩兵とで追いかけて来た。
イスラエル人たちはエジプトを脱出できた、ということで最初は喜んでいたようだ。意気揚々と出ていった、なんて書かれている。苦しい労働から解放されて、エジプトの主人の無茶な命令なんかも聞かなくてよくなった、そして自分たちの故郷、乳と蜜の流れる豊かな土地へ帰っていく、というような夢と希望を持っていたことだろう。
しかしその希望をうち砕くようなことが起こる。あのエジプトの軍隊が自分たちを追いかけてきたのだ。夢と希望がいっぺんに吹き飛んでしまったようだ。
見えない神
民はファラオと軍勢が迫ってくるのを見てモーセに文句を言った。俺たちをこんな荒れ野で死なせるために連れてきたのか。前は海、後は軍隊、もう死ぬしかないじゃないか、だから俺たちに構うな、放っておいてくれ、このままエジプト人に仕えて生きていく、そう言ったじゃないか。どうせこんなことになるだろうと思っていたんだ。そんなことだったようだ。エジプトを出ていくときには大喜びしていた民だったようだが、エジプト軍を見た途端に嘆いてつぶやく。
民には神が見えていたのだろうか。神の導きというものがどれほど分かっていたのだろうか。彼らにはまるで分かっていないかのようだ。エジプトを出る前にもいろんな奇跡があった。神がそうしろと命じられているということをモーセが行っているということは聞いていただろう。神がイスラエル人をエジプトから脱出させる、ということを聞いていただろう。そしてそれが現実となったのだ。しかしそれに対して困難が起こってくるとすぐに約束は吹っ飛んでしまったかのようだ。
葦の海
イスラエル人は葦の海を渡りエジプト軍から逃げる。神が奇跡を起こしたことで逃げることができた、という。
聖書は、これは神が栄光をあらわすためにしたことだ、という。神がエジプト軍を破って、そのことでエジプト人が、この神が主であることを知るためだ、という。
逆境
前も後もふさがれてしまって逃げ道がない状態にイスラエル人は置かれた。そしてそこで彼らはつぶやいている。どうしてこんなことになるんだ。こんなことのなるためにやってきたのか。ここで死ぬために、惨めに死ぬためにここに来たのか。彼らはそう言っている。
しかしそんな逆境の中に神は逃げ道を作ったというのだ。
イスラエル人を海の近くに導いたのも、ファラオの心を頑なにしたのも、そしてエジプト軍がイスラエル人に近づかないように真っ暗闇にしたのも、一晩中東風を起こしてイスラエル人が海の中の乾いた土地を行くことができるようにしたのも、すべて神がしたことだという。
しかしそれは人が神を知るためだったようだ。神の業を知るためだったようだ。
神はイスラエル人をエジプトから脱出させる。しかしそれは神がイスラエル人を神の手に載せて運び出すようにして脱出させたわけではない。海の中に乾いた土地を作ったのも、東風を使ってであった。またその風も、モーセが手を差し伸べることによって起こった。モーセを通して、自然的な力を通して神は働く。そしてその中を民は歩いていった。イスラエル人自身が歩いていくことでエジプトから脱出したのだ。
「恐れてはならない、今日主の救いを見なさい」とモーセは民に告げた。逆境の中にあってもそこで神の業を神の救いの業を見なさい、逆境の中に働く神をしっかりと見なさい、モーセは民にそう語る。今は恐れている時ではない。神がその業を見せてくれる時なのだ。だからしっかりとその業を見なさい。そしてここからしっかりと歩いていきなさい、ということだろう。
しっかりと見ていないと見過ごしてしまうようなことを通して神は働かれるようだ。しっかりと聞いていないと聞こえないような仕方で神は語りかけるようだ。しかし神はしっかりとイスラエル人たちを支え守ってくれている。つぶやき不平を言うイスラエル人たちであるが、神は彼らを守ってくださっている。その神の守りの中をイスラエル人たちは進んでいった。
私たちにも神の守りや導きは見えにくい。不安になりつぶやくこともある。しかし見えないところで、神はしっかりと私たちを支えてくれている。建物の基礎は見えないように、見えない所で神は私たちを支えてくれている。だからその神の支えと守りの中を、私たちも少しずつ歩んでいきたい。