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礼拝メッセージより
説教題:「導き」 2002年5月5日
聖書:出エジプト記 13章17-22節
回り道
やっとエジプトを脱出することができることになったイスラエル人たち。しかしそのイスラエル人を、神は迂回させた。一番近い道を通れば300kmくらいの道のりだそうなので、一日10km歩いたとしても一ヶ月程度で到着するくらいの距離である。でもその道を進むと言うことは強い民であるペリシテ人と戦う危険性があるということでもあった。
エジプトを出て約束の土地へと向かう道のりは大変困難な旅路だった。しかし40年もかかることになってしまった。しかしそれは、エジプトを出てすぐに戦うというようなより大きな困難を避けるための神の計画であったというのだ。
後悔
何か新しいことを始めるという時はその分危険がある。うまくいけばいいけれども、ちょっとうまくいかなくなると後悔する。こんなことしなければよかった。始めなければよかった。なんてことを思う。こんなことしないであのまま続けておけばよかった、なんてことを思うこともある。
仕事を変わるとかいうような時もきっとそうだろう。大変なことがあると、昔のままの仕事をしておけば今頃は、なんてことを思うこともあるだろう。牧師になんてならなくて、そのまま会社にいたらどれくらい給料もらっていただろうか、なんてことを思うこともある。
雲の柱、火の柱
イスラエル人にとってエジプトからの脱出はエジプトでの苦しい生活から解放されるための出発であった。しかしそれはまたその分将来がどうなるかという不安が増えるという出発でもあったことだろう。それまでの苦しみから解放されるという喜びが増えると同時に、これからどうなるのかという不安も増えるような出発だったことだろう。
そこで神は昼は雲の柱をもって、夜は火の柱をもって彼らを照らした。雲の柱や火の柱がどんなものだったのかよくは解らないが、とにかくそれは神がそこにいるというしるしだった。昼も夜もその柱が民の先頭を離れることはなかった、という。昼も夜も神は民を導いていた。神が民の先を進んでいた。そして民は神のあとをついていっていたのだ。
約束
エジプトを脱出するということは重労働からの解放であり、また約束の地へと向かうためであった。しかしその約束の地へ向かう途中の道はかなり大変な道だった。苦しい道だった。荒れ野の40年、なんて言われ方もするが、荒れ野を通り、苦しみを経験する長い旅路だった。約束の地は苦難を通り抜けた先にあった。そしてそこへ行くために、約束の土地へ行くために神は民を導いていく。
しかし民にはずっと先のことがなかなか見えない。将来の栄光よりも、目の前の苦難の方に目が向く。イスラエル人たちは、こんな大変なことになるなら来なければよかった、エジプトで奴隷として働いていた方がまだよかった、ということを言った。つぶやき文句を言った。
しかしそんな風につぶやいたり文句を言ったりしつつ、そこで神の導きを民は経験していったのだと思う。こんなことだから来たくなかったのだ、こんなことなら昔の方がよかった、と言いながら、しかしそんな情況の中でも神が導いていくというようなことを経験していったのだろう。そういう風に神に従うことを経験しながら神を知っていったのだろう。
神がそのようにしてイスラエル人たちを導いた。それは彼らを苦難の全くない別世界へと移すというような方法ではなかった。この世の苦しさや大変さのある中で、その大変さを通しての導きだった。苦しみや大変さがなく、思い通りに上手く事が運ぶことが神の導きとは限らない。それよりも、苦難を通して、苦難をくぐり抜けて、栄光へと導く、それが神の導きなのかもしれない。あるいはその苦難の多いこの人生を生き抜く力を与える、こんな時にも神が共にいてくれる、それこそが神の導きなのかもしれない。
どうしてこんなことが、どうしてこんなことにと思うことが多い。あの時あれをしなければ、あの時ああしておけば、と後悔することもいろいろとある。けれども失敗したり後悔したりする人間をも導かれる。つぶやいたり文句を言ったりする民をも導かれる。そしてその民を通して神はそのわざを行われる。
目先のことにとらわれ一喜一憂することが多いのが私たちの現実だ。しかし神の大きな計画の中に私たちも生かされている。私たちがどこへ向かっているのかもよく分からない。しかしとにかく神は私たちに先立って導いてくれているのだ。苦しいことも大変こともあるけれども、その先立つ神をしっかりと見上げていこう。そして神についていこう。神の導かれるところへ連れて行ってもらおう。