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礼拝メッセージより
説教題:「脛に傷あり」 2002年4月14日
聖書:出エジプト記 2章11-25節
生粋
昔、入社した会社から出向に出された。出された先の会社にはいろんな関連の会社の人たちが同じ所で働いていた。いろんな会社の人がいることが当たり前で、そこでそれぞれに同じように仕事をしていた。それで普段は誰がどこの会社の人間かなんてことはあまり意識することもなかった。部対抗のサッカー大会とか野球大会なんてのもあったけれども、いろんな会社の人間を総動員してやっていた。
その会社は毎年10月10日に運動会をしていた。その運動会だけはその会社の人間だけが参加できる運動会だった。運動会なんて勝手にやってくれればいいわけだが、10月が近くなるとそこの会社の人間が時々真っ昼間からごっそりいなくなることがあった。あとで聞くとなんと運動会の準備をしていたということだった。平日の仕事時間の合間に。
普段ほとんど意識しない、正社員とそれ以外の者という区別をさすがにそんな時は意識したものだ。俺は出向してきている身なんだ、なんてことをことさら思い出したりしていた。そしてたまに自分の会社に帰ると、そこで仕事をしているわけでもないのに、自分の会社なんだ、なんて意識があった。ここの人間なんだ、なんてことも多少は感じていた。
帰属
自分は一体何者なのか。日本人であるとか、フィリピン人であるとかいうような意識はある。ではどうしてそう思うのか。自分が日本人であるということはどうしてそう思うのか。何が日本人であるか、という定義をはっきりさせる前に、なんとなく自分は日本人であるという気持ちがある。
王子
モーセはエジプトの王であるファラオの王宮で育った。王女の養子として王子のように育ったことだろう。そしてエジプト人として教育されたことだろう。しかし彼は生粋のエジプト人として生きてきたわけではなかったようだ。彼にはイスラエル人であるという意識があったようだ。そうすると王宮の中で過ごす時には多少居心地の悪い思いをしていたのかもしれない。本来はここで生きるのではない、という思いを持っていたのかもしれない。あるいはだからヘブライ人の所へ出ていったのだろうか。そこでヘブライ人を虐待するエジプト人を見て殺してしまう。母親からヘブライ人として育てられたからヘブライ人としての意識があったのかもしれないけれども、そうするとモーセはずっと自分の所属すべき所、帰るべき所を探し続けていたということかもしれない。しかしその後ヘブライ人同士のけんかの仲裁をしようとしたところが、受け入れられずに、殺人をしたことも知られてしまい、ついにはファラオからも命を狙われることとになってしまう。帰るべき所を求めてさまよい続けるかのようなモーセだ。
脛に傷
神は脛に傷のあるモーセを選んでイスラエル人をエジプトから導きだした。弱さを持っている者を神は敢えて選ばれたのかもしれない。弱さのない人はきっといないだろうけれども、誰もが知っている弱みを持っている、弱みを握られているような者を神は選んだかのようだ。
人はえてして力で相手をねじ伏せようとする。今のイスラエルとパレスチナも力と力のぶつかり合いによっていつまでも戦いが終わらないように見える。どこの国も力を持つことで自分が優位に立とうとする。そうすることで相手をねじ伏せて、そのことで安心しようとする。力があることが今の世界のリーダーの条件でもあるかのようだ。
神さまは半端者を選ばれた。そしてリーダーにした。奴隷として苦労してきた訳ではない、王宮でぬくぬくと育ったような者をリーダーになんてことは人間的には考えないだろう。その場所で生まれて地道に苦労してきたもの、奴隷として同じように重労働してきたものであれば、リーダーとして認められる、そんな風に考えるのではないかと思う。そこで泣き言も言わずに黙々と耐えてきた者、そこで戦ってきた者こそがふさわしいと思うのが普通だろう。
しかしモーセはそういう面ではリーダーにふさわしくないと思えるような人間だった。おまけに殺人を犯し、ばれそうになると逃げてしまった人間だ。
モーセはミディアンという土地へ逃げ、そこで結婚し子どもを生まれた。そこでそれなりに生活しているモーセであった。そこまで逃げてきたけれども、何とかそれなりにやれている、という状態なんだろうと思う。
そのモーセを神は選んだのだ。あまりふさわしくない人間のような気がする。ヘブライ人のリーダーとしてはこういう点でふさわしくない、というような点がいっぱいあるような気がする。しかしそのモーセを神は選ばれた。全く不思議である。モーセ自身が私なんかはふさわしくない、と言っている。
私たちはリーダーを選ぶときに人間的な資質や能力を考える。けれども神の選びはどうもそうではないらしい。神の働きを担う者として神が選ぶ選び方は、人間的な選びとは随分違うことが多い。能力のない者や脛に傷のある者を選ぶようなのだ。敢えてそんな者を選ぶようなのだ。
教会では、私にはできません。私にはそんな能力がありません、そんな体力も知力もありません、という声をよく聞く。それはまさにモーセが神に反論した言葉にそっくりだ。できない、できない、そんなのは無理だ、モーセは何度もそう言った。しかしそのモーセを神は立て、ヘブライ人をエジプトから導きだした。
神は私たちにどう語りかけているのだろうか。その神の声をどれほど聞いているだろうか。そんなことはできない、ということを神に向かって語っているだろうか。人に向かって、それはできないとは言うけれども、神に向かってできない、と言うことは案外少ないのではないかと思う。神に向かって語りかけることが案外少ないのではないか。そして結局神の言葉を適当に聞き流して、神から目をそらしていることがおおいのかもしれない。私たちはもっと神にむかって語りかけることが必要なように思う。
モーセはやがてエジプトへ帰って行く。逃げてきた所へ帰って行く。それはモーセにとってはとても辛いことだっただろう。しかしそのことを通して彼はヘブライ人として生きるようになった。神の民として生きることとなった。それはモーセにとっては本拠地に帰って行くということでもあったのではないかと思う。本来帰るべき所へ帰るということでもあったのだと思う。それは大変な苦労を経験することでもあった。けれども神がモーセを選んだと言うことは、モーセを本来の居場所へと呼び戻すということでもあったのではないかと思う。神の導きとは私たちをも本来のいるべき場所へと呼び戻すことでもあるのかもしれない。だからこそ余計に神の声を、私たちを呼ぶ声をしっかりと聞いていきたい。