前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
説教題:「弟子となる」 2002年3月31日
聖書:マタイによる福音書 28章11-20節
イースターとは
復活節、復活祭とは、イースター。これは英語の言い方だそうだ。フランス語では、何と読むのか分からない。
クリスマスはイエスの誕生日を祝うということは良く知られている。でもイースターなんてのはそんな日があることもあまり知られていないように思う。そしてそのイースターが何の日なのかなんてことはなおさら知られていない。と思う。
イエス・キリストは十字架で処刑された。そしてそれは実は人類の罪のため、人類の罪を救うために十字架につけられた、聖書はそう語る。しかもイエスは神である、というのだ。神でありながら人間となった。なのに十字架で処刑されてしまった。でもその時にイエスの選ばれた弟子たちはみんないなかった。みんな逃げてしまった。
ところがその処刑されて死んだイエスがよみがえったと聖書は告げる。
だいたい復活なんてあるのか。本当かいな、信じられん。そして福音書の中にも信じられん人がいたことが書かれている。
イスラエルの一日
一日は日没とともに終わる。そして一日は日没とともに始まる。
安息日が始まる前の日にイエスは十字架に付けられた。そしてその日の夕方には墓に入れられた。遠くから十字架を見守っていた婦人たちのことが27章に書かれている。
イエスの埋葬
婦人たちはイエスの遺体が埋葬されたのを見届けている。そして翌日、イエスのことを苦々しく思っていた祭司長やファリサイ派の人々は墓に番兵を置いてもらうようにしてもらっている。
なかなか用意周到である。
安息日の次の日の明け方
安息日の次の日は今の日曜日に当たる。この日、イエスは復活した。そもそも安息日は土曜日、土曜日が聖なる日だった。旧約聖書でいう聖なる日、聖日は土曜日なのだ。しかしキリスト教会の多くはイエスの復活を記念して日曜日に礼拝を行っている。安息日は週の終わりの日で次の日が週の始まりの日である。
この日の明け方マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見にいった。イエスを見に行ったのか。他の福音書では遺体に塗る薬を持っていったと書いてある。そうすると本格的に埋葬する準備をするためかも。
天使の登場
しかし彼女たちはそこでイエスの遺体ではなく天使に会う。そしてイエスの復活を告げられる。生き返った、よみがえらされた。
死体に会うために墓に行ったのに、生きている、復活したと告げられる。婦人たちは恐れながらもおおいに喜んで弟子たちに知らせるために走った。その途中に生きているイエスに出会う。「おはよう」は一般的な挨拶の言葉。直訳すると「あなたたちは喜べ」。そしてイエスからも弟子たちへの伝言をことづかる。
祭司長の策略
数人の番兵は事の次第を祭司長に報告し善後策を練る。そして弟子たちが死体を盗んでいったことにしてしまう。この期に及んでもという気もするが。その執念はすごい。イエスは自分たちのことを批判していた。だから何としてもイエスを悪者にしておかねば、という気持ちなのか。そしてこの話しは今日に至るまで、つまりこの福音書の書かれる時代までユダヤ人の間に広まっていた、と書かれている。
弟子たちと会う
イエスはガリラヤで弟子たちと会う。ガリラヤは弟子たちのふるさとである。弟子たちはイエスに全てをかけて、未来を託してついていった。この方こそこの世をどうにかしてくれる方だ、この方にこそついていくべきだ、との思いを持っていたのだろう。だから仕事を捨て、人生をかけてイスラエルの中心であるエルサレムまでもついていった。ところがその自分の師匠がこともあろうに十字架なんぞにつけられて殺されてしまった。
故郷に錦を飾る、気持ちもあっただろう。誰もが賞賛する立派な先生の弟子、偉大な指導者の弟子としていつかは故郷に帰ることもあるだろうという気持ちも持っていたに違いない。
しかし彼らはイエスが捕まるとみんな逃げてしまった。中途半端についていっていざとなると逃げ出した、どこまでもついていきます、死んでもついていきます、なんてことも言いながら、最後にはそんな人は知らないと言った弟子もいた。弟子たちはきっとそんな挫折感を味わっていただろう。彼らにとって故郷であるガリラヤに帰ることはかなりつらいことだ。「イエスなんていう変な奴についていくからこんなことになるんだ」と言われるかもしれない。錦を飾るはずだったのにそれどころではなくなってしまった、そんな風に弟子たちの落胆も相当なものだったことだろう。
しかしそのふるさとのガリラヤでイエスは弟子たちと再会する。そこは弟子たちがイエスと出会った場所でもあった。そこがイエスにとっても弟子たちにとっても原点なのだ。ガリラヤで会うということは、その原点へもう一度帰るようにということなのかもしれない。そこに立って、原点に立って、もう一度自分たちの見てきて事、聞いてきたこと、つまり、イエスが何を語ってきたか、何を行ってきたか、どんな人と接してきたか、そのことをもう一度最初から見つめ直すようにということなのではないかと思う。そしてそこからもう一度出発するようにということなのではないか。
ガリラヤで会うということは弟子たちにもう一度やり直すチャンスを与えようとしているように見える。
わたしの兄弟たち
イエスはよみがえって婦人たちにあった時に、「わたしの兄弟たち」にガリラヤに行くように、と伝言を頼んだ。自分を見捨てて逃げた、自分を裏切った、最後の最後で見事に裏切った弟子たち、その弟子たちのことをイエスは「わたしの兄弟たち」と言っている。
弟子たちはイエスを見捨てた。しかしイエスは見捨ててはいない。イエスは決して見捨てないのだ。十字架について人類のすべての罪を清算した。救いを完成した、イエスがなおも弟子たちのところへとみずから赴くのだ。しかも兄弟として。兄弟のようにどんなことがあっても切れない関係をイエスが持って下さっているのだ。そのイエスが弟子たちの方へ赴かれる。
宣教命令
それは弟子たちを叱るためでもなく、裁くためでもない。大事な務めを彼らに託すためであった。
弟子たちにあったイエスは彼らに、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言う。
すべての民、とは大きく出たものだ。なんだかだらしない弟子たちである。挫折し、自分を見捨てた弟子たちである。その彼らにイエスは全世界へと出ていくように、全世界で自分のことを伝えるように、と命令する。
やがて実際多くの国にイエスのことは伝えられた。そして日本にも、私たちのところにも届けられている。
いつも共にいる。
イエスは弟子たちに大変な命令をするだけではない。弟子たちにやらして自分は知らん顔ではない。
イエスは世の終わりまであなたがたと共にいる、との約束をしている。イエスが共にいる?本当か、見えない、見えたらいいのに。どういうふうに共にいるのか良く分からない。しかし共にいるのだ。それがイエスの約束でもある。
イエスは見えない形で弟子たちと共にいた、だからこそ弟子たちは出て行くことが出来た、全世界へと。
私たちもイエスの弟子として下さる。復活のイエスが弟子のところへ赴いたように私たちのところにも来られている。イエスの約束、世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる、それは私たちに対する約束でもあるのだ。
神の偉大な力がイエスの復活によって明らかにされた。そしてその神の力が私たちにも及んでいるということだ。その神が私たちと共におられるからだ。
この偉大な神は私たちの神でもあるのだ。