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礼拝メッセージより
説教題:「あなたに」 2002年4月21日
聖書:出エジプト記 3章1-22節
躊躇
ヘブライ人がエジプトで奴隷として苦しんでいた時、王女の子どもとして王宮として育ったモーセは、ヘブライ人を打つエジプト人を殺してしまう。しかし、そのことが知られてしまいミデアン〔シナイ半島の東にあるアカバ湾の東側〕に逃げていた。しかしそこで結婚し子どももできてそれなりの生活をしていた。そこでそのまま過ごすのも悪くないと思っていたかもしれない。多分そうなのだろう。
しかし、そのモーセに神は語りかける。3:7-10「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。 それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」
モーセは神の命令を聞いて、すぐに、ハイそうですか、と従ったわけではなかった。最初のモーセの返事は3:11「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
その後もいろいろと神さまに対して反論を繰り返す。「わたしは一体何者でしょう。」、「神さまの名前を聞かれたら何と答えましょうか」。結局そんな事は出来ない、と言っている。結局8会神に反抗するそうだ。
しかしそれでも神はあきらめない。出来ない、出来ない、と言っているモーセに対して神さまは一つ一つ答える。それでもモーセはなかなか決断出来ない。4:1では、「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」。これに対して神さまはいろいろなしるしを見せて、モーセを勇気づけようとする。モーセが手に持っていた杖を蛇に変えて、その尾を取るとまた杖にもどるということを見せる。
決してモーセが神様の言うことを信用していないわけではないのです。4章では神さまが蛇の尻尾を取れと言ったときには、普通なら噛まれないように首の方を持つそうだが、素直に尻尾を取っている。しかしまたその後手をらい病にするなんていうすごいしるしを見ても、まだモーセの不安は解消されない。
神に従う決心ができない。行動を起こす決断が出来ない。4:10。 それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」
あなたが話すべきことは私が教えるから大丈夫なんだ、と神さまは言うが、なおもモーセは4:13「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」という。それに対して神さまはついに怒って、あなたの兄弟アロンがあなたの代わりに話すから心配するな、とモーセをたしなめるのです。
心配
しかしモーセの心配も当然だ。自分の命の危険の有るところへわざわざ自分から帰っていけといわれるのだ。どうなることかといろいろ心配するのも当然だっただろう。今は家族もできて、それなりに生活している。その今の生活を捨てて危険を冒すようなことはしたくないと思うのは当たり前だ。
それにモーセは自分が本当はエジプトからイスラエルの人々を連れ出すような、そんな人間ではないことを一番よく分かっていたのだろう。というか、自分はそんな人間ではない、と誰よりも思いこんでいたのかもしれない。
神の言葉に従おうとする気持ちと、それをとどめようとする心、不安との間で葛藤しているように思う。とんでもない難題を突き付けられてとてもじゃないが出来るわけがないので止めさせて欲しいと言う気持ちの方が強いのかもしれない。
モーセの今後の行く末は全く見通しも立たず、いつになったらエジプトを出られるのかも分からず、その上ファラオも容易に出国させてくれそうにもない。その時モーセは何を考えていたのだろうか。これから先に大変な事が待ち受けているであろうということだけである。なんとこころもとない状況だろうか。その後、順調にことが運べば、自信も出てきて、不安も解消されていくだろう。さすがに神のすることはすばらしい、と言う気にもなる。
しかし実際にはその後何回も奇跡を行ったにもかかわらず、ファラオはなかなかイスラエル人をエジプトから出させようとせず、ますます重労働をさせるようになり、モーセはイスラエル人とファラオの間に板挟みのようになり、辛い思いをすることになってしまう。しかもファラオはすぐに言うことを聞くようなことはない、とまで神から言われている。そりゃ躊躇するよ誰だって。
偉大
モーセは偉大な人物であるというイメージがある。しかしモーセが決して泣き言を言わずに神の言葉に従った訳ではなく、命令を聞いてすぐに神の言葉に従った訳でもないのです。いざ鎌倉へと言って待ってましたと出ていったわけでもなかった。しかし、神はモーセを選び、モーセに神の務めを託している。いやだ、できない、他の人に、というようなモーセを神はあきらめない。
そしてそのことはきっと今の私たちにもあてはまる。たとえ私たちがすぐに弱音を吐くような弱い人間だとしても、それで神がすぐにあきらめたりはしない。モーセこそ真先に音をあげた人間なのだ。そして何度も何度も弱音を吐いているのです。5:22にも「わが主よ、あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません」とあるように、実際にファラオにあって奇跡を行い、しかし主が予告した通り、ファラオが心をかたくなにしたときにも愚痴をこぼしています。しかし、そんな人間的に見ればどうしようもないようなだらしのないような人間をも神は用いようとされるのです。4:14によると主はついに怒りを発して語るほどなのです。しかしそれでも神はモーセを用いられるのです。
神の杖
4:2で神はモーセに手に持っている杖を地面に投げよと言い、その通りにするとその杖が蛇になった。4:20モーセは、妻子をろばに乗せ、手には神の杖を携えて、エジプトの国を指して帰って行った。そのただの杖が、ついにエジプトへと出ていくときには「神の杖」と言われている
神の杖を持ってモーセは出発した。ただ神にしか頼ることができない。自分だけでは何も出来ない、何をする自信もない。これからどうなるのか不安をいっぱい抱えての出発だっただろう。この神の杖にもたれかかるようにしてモーセは出て行ったのだろう。
そして神はこのモーセを通して大きな働きをなされた。たまたま持っていた杖を使って神は奇跡を行った。そんなもの誰でも持っている、どこにでも落ちている、そんなものを神さまは用いてくれる。自分には少しもすぐれたところなんかない、他の人よりも素晴らしいところなどひとつもない、そう思っているその人の、当たり前に持っている物を、神さまは用いるということだろう。 神は私たちに何をするようにと言われているのだろうか。私たちも不安が一杯である。障害も多い。才能もお金もない。ないものばかりのような気がする。でもきっと神は私たちが既に持っているものを用いてくれる。そして、あなたが生きなさい、あなたがそれをするのだ、あなたが私のわざを行うのだと言われているのではないだろうか。私の偉大なわざを、あなたの教会を等して、あなたを通して行う、神はそう言われているのではないか。