聖書:マタイによる福音書 27章3-10節、45-56節
裏切り者?
死人に口なし。ユダは裏切り者という風に伝えられてきた。なんだかユダだけがひとり悪者にされてきたようだ。
マタイ
26:21 一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」
26:22 弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。
26:23 イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。
26:24 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
26:25 イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」
ちょっとひどい言われ方をしている。
イエスが12人の弟子を選んだところでも、「10:1 イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。10:2 十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、10:3 フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、10:4 熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。」という風にわざわざユダの所でイエスを裏切ったなんていう注釈がついている。福音書の中でもユダに対する待遇は冷たい。しかし聖書が告げるように裏切り者はユダだけではない。
弟子の中でもリーダー的な存在であったペトロは、一緒に死ぬようなことになってもあなたのことを知らないなどとはいいません、と言っておきながらイエスを3回も知らないと言った。そして12人の弟子たちはイエスが捕まってしまうとみんなイエスを見捨てて逃げてしまった。
なぜだかユダだけが裏切り者と言われている。まるでユダだけが悪者とされてしまっているかのようだ。でも本当にユダだけが特別に悪者だったのか。とてもそうは思えない。
自殺
ユダは銀貨30枚でイエスを売ったという。それは奴隷1人の値段なのだそうだが、ユダはどうしてイエスを売ったのだろう。
よくは分からないが、しかしユダはイエスが有罪になったことでこのことを後悔してそのお金を祭司長や長老たちに返そうとしたという。
お金を返したんだからそれでいいではないか、というようなことをよく聞く。最近の政治家でも、おかしなお金をもらっているのではないか、なんてことを追求されても、そのお金は返しました、というようなことで責任がないというようなことをいうことがよくある。しかしユダは自分がイエスを売ったことを後悔し自殺という道を選んでしまった。結局自分の責任を自分で全部背負ったわけだ。そういう点では非常に責任感のある人間だったのかもしれないと思う。お金も返したんだから、それなりに責任はとっているではないか、という気がするがそんなことで納得するようないい加減な人間ではなかったのかもしれない。
ペトロを初めとする他の弟子たちは、同じようにイエスを裏切って逃げてしまった。しかし彼らは自殺することはなかった。彼らは自分で自分の罪を背負うことはしなかった。
ユダと他の弟子たちの違いはそこでしかないような気がする。ユダだけが特別悪い裏切り者だったという訳ではないだろうと思う。ユダだけが誠実に自分の罪を自分で背負ったというだけに過ぎないように思う。しかし残念なことにユダはその自分の罪が赦されるものであることを知らなかったのだ。あまりの罪の重さにユダは耐えきれなくなっていたのだろう。多分その重さに耐えきれなくなってしまって自殺したのだろう。
ゆるしのないところでは、自分の罪を全部自分が背負わなくてはならない。しかしイエスの下には赦しがある。イエスの十字架は私たちの罪を背負っての十字架である、と聖書は告げる。赦されることで私たちはその重荷から解放される。自殺するしかないような、そんな重荷を私たちは全部背負わなくてもいいのだ。
ユダと他の弟子たちとの違いは、そのイエスの下へ返ることができたかどうかということなのではないか。ユダは自分の罪をすぐに自分で精算して自殺した。他の弟子たちは裏切った後もどうしたものかと思いつつも、やがてイエスの下へ返ってきた。正確には復活のイエスが彼らのところへやってきた。そこでもう一度イエスとの関係を持つことができた。
同じ裏切り者であったが、イエスとの関係を取り戻せなかったユダと取り戻せた他の弟子たち。彼らの違いはただそれだけだったように思う。本質的にはほとんど差はないだろう。
クリスチャンであるかないかと違いも似たようなものだ。本質的にそんなに違いはない。クリスチャンであることがきよいわけでも、立派な訳でもない。ただ負いきれない重荷をイエスに委ねているかどうかという違いでしかない。教会はそんなイエスの十字架の下に集められている罪人の集まりであるのだ。きよく立派な人間が集められたわけではない。あなたは赦されている、あなたは自分の罪を全部背負って生きなければならないわけではない、私があなたの罪を背負う、そういうイエスの言葉を聞いて安心して、喜んで生きる者の集まりなのだ。