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礼拝メッセージより
説教題:「励まし合い」 2002年3月17日
聖書:マタイによる福音書 25章31-46節
憐れみ
最後の審判のコトが書かれている。審判の基準は、憐れみがあるかどうかである。小さい者に対して、最も小さい者に対して憐れみを持って接しているかどうか、それが審判の基準なのだというのだ。
信じること
信仰とは、神の御心に沿って生きること。そしてその御心は、もっとも小さい者に対して憐れみを持って接するということだ。
信仰とは、神を見上げて主よ、主よと叫ぶことではない。礼拝に来てどれほど静かに黙っているかということが大事なのではない。よそいきの服を着て、きちんとした姿勢で微動だにしないことが大事なのではない。そういう気持ちで神の言葉を聞こうとしてそんな振る舞いをするのであればそれは意味があるだろうが、そういう格好をすることが大事なのではなくて、そこでどれほど神の言葉を真剣に聞いているかどうがが大事なのだ。
そして神が大事なことだと言っていることは、どれほど真剣であったか、神に向かってどれほど真剣に祈ったかとか、どれほど神を疑わずに信じたかというようなことではなく、最も小さな者を大事にしてきたかどうか、それが大事な事だというのだ。
私たちはどれほど小さな者のことを大事にしてきただろうか。周りにいる人のことに配慮しているだろうか。
礼拝の時はどうだろうか。礼拝に来られた人たちのために私たちは何か配慮しているだろうか。小さな子どもを連れてきた人に対して、私たちは配慮しているだろうか。その人も安心して礼拝に参加できるようにしているだろうか。その人が説教を聞けるように子どもを預かることをしているだろうか。実際には、子どもが騒ぐと、うるさい、静かにさせなさい、というような雰囲気で親を見るという教会が多いようだ。あなたたちはどこか別の部屋へ行ってなさい、という感じ。要するに自分たちの邪魔をするな、というような気持ちを持っている教会が多いようだ。私たちの教会の礼拝の邪魔をするとは何事か、という感じかな。礼拝の時ですらそうやって配慮しないとしたら、いったいいつ配慮するのだろうか。
いつしなかった
左側の人たちは、いつわたしたちがお世話をしなかったでしょうか、と聞く。右側の人はやっていながらいつやったかと聞いて、左側の人はしていないのにいつしなかったか、と聞く。私たちはどう思っているだろうか。だいたい口では謙遜して、していない、とか言いながら、本心ではいつしなかったか、と思うことが多いのではないか。
キリストに
最も小さい者にしたのは私にしたのだ、とキリストは言う。そして最も小さい者にしなかったのは私にしなかったのだ、という。
隣人を憐れみ、隣人に配慮する、それはキリストにすることなのだ、というのだ。最も小さい者にすることはキリストにすることだ、という。最も小さい者、とは誰のことか。それは自分のこと?
自分のことでもあるのかもしれないが、最も小さい者とは、自分ひとりの力では生きることもままならないような人、苦しめられ抑圧され差別されていながら、でもそこから自力で抜け出す力も持ってないような、そんな人のことではないかと思う。きっとそういう人に何かしたとしても、お返しをすることもできないような、あるいは感謝されることもない、そんな人のことかも知れないと思う。
しかしそんな人に配慮することはキリストにすることなのだというのだ。そして神を信じるということはそんな人のことを配慮することでもあるのだ。
『マタイ7:21 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。』
礼拝の邪魔だから、うるさいからと言って子どもを、またその親を追い出すとしたら、それはキリストを追い出しているということかもしれない。あるいは礼拝に来た人が変な格好をしているから、変な雰囲気だから、と言って近づかないとしたら、それはキリストを遠ざけているということかもしれない。
お客様
祈り会では伝道対象者の人たちのことを祈っている。以前は求道者と言っていたがある時から伝道対象者と言うようにした。新しく来る人たちは私たちが、教会が伝道していく人たちであるからだ。その人たちは道を求めてやってくる訳だが、ただそれだけではない。勝手に道を求めにくる人であって自分には関係のない人、ではないのだ。私たちが伝道する人なのだ。
日本では教会員でない人たちのことを新来者とか求道者とかいう事が多いが、あるアメリカの教会ではゲストと呼んでいるそうだ。お客様なのだ。
よく教会は家族のようなものだと言う。そして兄弟姉妹という言い方もする。それならば、そこに新しくやってくる人たちはその家族みんなのお客様のようなものだ。誰かが連れてきた人も家族みんなのお客様だ。そして教会員はお客様を迎える家族ということになる。お客様を迎えるのに、家族がお客様の椅子に座っていてはお客様の座る場所はなくなってしまう。家族がお客様の椅子に座って、接待されることを待っているとしたら、お客様は座る場所もなく接待されることもなく、きっと帰ってしまうだろう。そして二度と来ることはないだろう。そしてそれが今の教会の実体かもしれないと思う。
新しい人のことなどどうでもいい、いつまでも自分が接待されたい、いつまでも自分のことをお客さまとして配慮して欲しい、というのであればもう言うことはない。
けれども、教会に多くの人が来て欲しい、いろんな人を招きたい、と思うとすれば、今度は自分がお客様の面倒を見る側、お客様を第一にする側にならなければならない。そしてそれはここでイエスが言う、最も小さい者を大事にするということでもあるだろう。
最も小さい者にするということはきっと見返りのないことだ。してあげたのにと思っても感謝の言葉もないかもしれない。でも本当は見返りを期待するようなことではなく、それはキリストに対するお返しなのだと思う。キリストが私たちを憐れみ愛してくれている、それに対するお返しが最も小さい者に配慮すること、隣人を憐れむことなのだろう。そうするとそれをしないことはキリストに対してのお返しをしていないということかもしれない。
新しい人に対してだけではなく、お互いがそれぞれに配慮することが大事なのだろう。誰かのために自分に何かが出来ること、それは喜ばしいことだ。そしてそうやって配慮し合っているならば、そんな雰囲気を新しい人も感じとるに違いないだろう。周りの人を大事にする、それはキリストを大事にするということでもあるのだ。キリストを証しする、キリストを宣教する、伝道するということはそういうことでもあるのだと思う。自分が人を迎える側になる、ということでもあるのだと思う。伝道も牧会も牧師だけがするのではなく、教会全部がするのだ。
接待されることはもちろん嬉しい、しかし接待できることはきっともっとうれしいことだ。そしてきっとその方が喜びも大きい。