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礼拝メッセージより
説教題:「休み」 2002年2月10日
聖書:マタイによる福音書 11章28-30節
休むことは罪か。日本の会社では有給休暇をまともに取ることも出来ないそうだ。本当はみんなとりたいだろうと思うけれども、やっぱりどこか休むことに対して罪悪感があるのかなと思う。あるいは、休みとは立派に働いた者に与えられるご褒美ということ気持ちもあるように思う。まともに働きもしないで何が休みか、というような気持ちがある。
そんなこともあってだろう、僕はいつもあまり休めなかった。休みの日はあっても、ゆっくり休めなかった。どこか足りないと思っていた。休むほど働いてもいない、大したこともできていない、まだまだ足りないのだ、と思っていた。だから大手を振って休む、という気持ちになれなかった。そうやってゆっくり休めないものだから、次の仕事も張り切って出来ない、というような感じだった。
休みとは平安であることと関係が深いように思う。平安がなければ休めない。魂が動揺していてはどれほど時間があっても休めない。
箴言17:1 乾いたパンの一片しかなくとも平安があれば/いけにえの肉で家を満たして争うよりよい。(新共同訳)
平安はお金では買えない。平安を獲得する人は、人生のあらゆる事柄で助けを得る。生きる力が与えられる。問題に立ち向かう力が湧いてくる。平安がないと、些細なことが重荷となり、ちょっとしたことでいらだつ。いつもピリピリして張りつめていると、少しのことでぷっつんしてしまう。切れるということをよく聞くが、心が弱く切れやすくなっているということかもしれないが、それだけ張りつめているということでもあるのではないかと思う。
この休ませるという言葉は、「弓や楽器に使われていて張りつめた弦をゆるめる」という意味があるそうだ。最近は、いっぱいいっぱい、という言葉がはやっているが、そんないつもぎりぎりで生きている人に対して、少し緩めるようにとイエスは言われているようだ。緩めても大丈夫なんだよ、と言われているようだ。イエスの言う休ませるとは、平安を与えるというようなことでもあるのだろうと思う。
しかしいつも平安ではいられないのが現実。私たちを悩ませることがいろいろと起こってくる。外的なこと。そして内的なこと。
私たちの良心も私たちを悩ませる。良心が自分に語りかける。
「おまえはここで失敗した。あそこでも失敗した。おまえは悪いことばかりしている。おまえはだめな人間だ、おまえなど大した人間ではない、大事な人間ではない、おまえなど必要ない,おまえに平安などないんだ。おまえはそうやっていつもびくびくして過ごすのだ。いつも失敗を恐れて,人から非難されることを恐れて生きていくのだ。そして裁きの日には今までの悪のすべてが明らかにされる。そしてきっと有罪とされる。」
自分自身の心の中に,自分を責め自分を苦しめる思いがある。お前は悪い人間なんだ、駄目な人間なんだ、きっとみんなにも知れ渡る。そしてみんなから見捨てられる。
調子がいいときにはそんな思いは静かにしていてくれる。しかし、何かの拍子にむっくりと起き出すときがある。それはほんの些細な誰かの言葉であったりする。誰が何と言おうと、自分のことを自分自身で駄目だと思っていなければ、どうということもない、しかし自分自身で、きっと自分は駄目なんだ、と思っている時に、おまえは駄目だ、と言われると、とたんに落ち込んでしまう。動揺して平安はなくなってしまう。それは自分の駄目さが人にばれてしまい、見捨てられるのではないか、という恐怖心でもある。
だらしない店主を鍛えて、店を繁盛させて貧乏から脱出させよう、というテレビがある。名人に鍛えてもらうような場面があるが、そんなのを見ていると自分が責められているような気になってしまう。そんなことでどうする、と自分が言われているような気になってしまう。いつもまわりからそんなことを言われそうな気持ちでいる。そして言われるとやっぱり自分は駄目なんだと思ってしまう。もっともっとやらないと、もっと立派に抜かりなくやらないといけないのだ、まだまだ足りないのだと思ってしまう。けれども自分が考えるほどりっぱに出来るわけもなく、結局は自分は駄目なんだと責めてしまう。
人から駄目だといわれたときとか、自分ではうまくやらないといけないと思っていることが出来なかったとき、そんな時にまた自分自身の中にある、自分を責める思いがまた叫び出す。おまえは駄目だ、駄目だ。そうすると夜も眠れなくなる。良心が責めるため、人は眠りたいのに眠れない。睡眠薬を飲んでもそれが効くのはわずかの時間である。目覚めるとまた自分を責める。誰からも認めてもらえないのではないか、という気になる。
どうしてそんなに動揺するのか。それは、自分の居場所を見失うような時ではないかと思う。自分を支えを見失ってしまうような時ではないかと思う。根のない草のようなもの、あるいは幹につながっていない枝のようなもの。あるいは親が見つからなくなった幼子のようなもの。こんな不安なことはない。子どもが親から見捨てられるとしたらこんな不安はない。親から捨てられると思うと子どもは泣き叫ぶ。帰る家がないとなると、あるいはその家が自分が安心して帰ることが出来る場所でないならば、子どもは安心して外で遊ぶこともできない。
自分の魂の帰るところ、自分の魂の支えとなるところがあるという安心感がないと、人は不安を抱えたままになる。自分のすべてを支えてくれる、決して見捨てない、絶対的に受け入れてくれるものを人はみんな求めているのだと思う。
イエスはそんな人に、自分のところへ来なさい、と言われる。おまえが帰ってくるところはここなんだ、と言っているようだ。親を見失った子どもにここにいるよ、と言っているようなものかもしれない。傷つき倒れ疲れ果てた者に対し、そして何をする元気も無くしてしまった者に対しても、ここに来なさい、と語っている。そして休みなさい、といってくれる。
そこでは罪の赦しが宣言される。人間を苦しめる過去の罪を赦すことによって、自分を責める思いを鎮める。こうして平安を与える。自分はだめだ、と言う思いから解放される。おまえを愛している、おまえは大事だと言う言葉がそこにある。そしてそこから生きる力が与えられる。
レビ記には「罪は赦される」と言う言葉が度々出てくる。
しかし何とも人の苦悩は重たい。
スポルジョン「皆さんが心の中の苦悩をすべて打ち明けられたとしたら、私はその悲しい話を聞くに耐えることが出来ないでしょう。」と語った。
人前では楽しそうに、いつも冗談を言って笑わせている人が、一人になったときには誰よりも暗いなんてこともある。どんな人でもいろいろな悲しみを持っている。しかしそんな私たちの悲しみを、たぶんどんな人でも負いきれない悲しみをイエスは全部背負ってくださる。そうしていやしてくださる。重荷に苦しむ者の重い荷を背負ってくださる。
疲れた人,重荷を負って苦労している人と共にいることはつらい、大変なこと。一緒にいるだけでも、こっちも疲れる。話を聞いていると尚更。こっちも同じように疲れる。
なるべく楽しくなるような人と一緒にいたい。しかしイエスは苦しむ者に語りかける。私のもとへ来なさいと。
今苦しんでいる人へ語りかける。苦しくてどうしようもない人へ語りかける。イエスはそんな魂に休みを与えてくださる。
イエスがそうは言ってくれても、こうなってしまったのは自分のせいなのだ、もともと自分が悪かったから仕方ない、こんな性格だから仕方ない、私はやっぱりだめなんだ、こんなこと誰にもいえない。こんな恥ずかしいこと・・やっぱり私が悪いのだ、といつまでも自分で自分の重荷を負おうとしている。
あるいはそれは自分の親からの要求だったのかもしれない。ある本の中で、自分の心の中にとりこんだ親の要求に苦しめられると書いてあった。それを乗り越えない限り人はそれに支配されているようだ。親や誰かの声が実は私たちをしばり苦しめている。休んでは駄目だ、勉強しろ、仕事しろ、まだまだそれくらいでは休めないぞ、もっと立派になれ、もっと賢く、もっとうまく、もっと強くなれ、そうでないと認めない、という誰かの声がする。そしてそんな声が私たちを私たちの心の中から私たちを苦しめる。
しかしイエスは私のくびきをおいなさいと言われる。とにかくその私のところへ来なさい、私の声を聞きなさい、と言われる。いろんな声に苦しみ、自分の境遇に苦しむ、自分は駄目だとしか思えない、そんな思いを抱えたままで私のところへ来なさい、とイエスは言われている。
親や誰かの、もっとやれもっとやれ、まだ駄目だまだ駄目だ、という声ではなく、イエスの「私の所へ来て休みなさい」という声を、そして「私はあなたを愛している」、「そのままのあなたを愛している」という声を聞いていきたい。イエスはきっと私たちの心の一番奥底に語り掛けておられる。
イエス・キリストの招き。しかも疲れたものを招く。そこに教会がある。教会はそんな疲れたものが招かれているところ。いろんな重荷を背負ったものが来るところ。人生に疲れ、対人関係に疲れたものが集まるところ。
一緒にイエスの言葉を聞き、いたわり合うために集められた者たちなのだ。愛し合うために集められているのだ。