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礼拝メッセージより
説教題:「神の言葉を」 2002年2月3日
聖書:エフェソの信徒への手紙 6章10-24節
強く
強くなれ、とこの手紙は言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなれ、と言う。それは悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい、ということであるという。まるで今から戦争でも始まるかのような言い方である。
悪魔
悪魔とはどんなものか。ホラー映画に出てくるような姿形をもった妖怪のようなものなのか。それとも、悪魔というのは昔の人が考えた得体の知れない恐ろしいもののことか。
聖書によると、悪魔とは結局は神の敵であるもの、人を神から遠ざけ、人に神の声を聞かなくさせるもの、ということになる。悪魔というとなにか怪物のような姿をしていて、時には人に悪さをする恐いものというようなイメージを持ちがちである。人に取り憑いておかしくしてしまうようなものというような感じだろうか。しかし聖書の言う悪魔とは、そんなお化けのような存在というよりも、人を神から遠ざける、神のことを考えさせないようにする、神のことを忘れさせるもの、そういう風に人を先導し誘惑するもの、そんな悪の力を悪魔と呼んでいるようだ。そしてそんな悪の力、それが私たちの戦う相手、悪魔なのだろう。
時々、何でもかんでも悪いことがあると悪魔のせいにするような人もいる。自分が望まないことが起こると、たとえば病気になったり、災害にあったり、けんかしたりすると、それがみんな悪魔のせいだ、というように言う人がいる。それは結構便利な考え方ではある。それは悪魔のせいだ、人が悪いのではなく悪魔が悪い、私が悪いのではなく悪魔が悪い、と言うのはなかなかいい方法ではある。けんかしても、悪いのは悪魔なのだ、悪魔の仕業だ、と言う風に考えるならばなかなかいい方法かもしれないと思う。でも自分の失敗も間違いも悪魔のせいにしてしまうとちょっと無責任になる可能性もありそうではあるが。
とにかく私たちの戦いは、人間と戦うのではない。目に見える人間をやっつけるのではない。見えないもの、暗闇の世界の支配者と戦うのだ。
武具
戦いに備えて武具を身に着けなさいということであるが、その武具は、真理の帯、正義の胸当て、平和の福音を告げる準備の履き物、信仰の盾、救いの兜、霊の剣、というものだという。武具を身に着ける、なんて言うと戦国時代のような鎧兜をつけるような印象を持ってしまうが、信仰の戦いにおいては大きな重い鎧兜をつけるのではなく、神の武具という目に見えない重くない武具を身に付けるというのだ。神の武具とは目では見えないものばかりだ。しかしそれが、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げ、しっかり立つための神の武具であるというのだ。
祈り
そして、どんな時にも、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい、と言われる。祈ることでさまざまな試練を耐え抜く力が生まれるということのようだ。
祈ることで神の御心を知る、祈ることで神とつながる。祈ることで神の声を聞く、祈ることで自分のなすべきことを知る。祈ることで自分を神に委ねることが出来る。そして神に委ねることで全力を発揮することが出来る。神に委ねることで余計な心配をすることなく安心して自分の務めを果たすことが出来る。
委ねる
祈るということは神に任せるということでもあるだろう。後は神さまお願いします、ということもあるだろう。
しかし神に全てを委ねることは、何もかも全部神にしてもらって自分は何もしないということではない。委ねたから何もしなくていいのではない。
祈りとは神に、あれをしてください、これをしてください、といってお願いすることだけではなく、神の声を聞いていくということでもある。そしてそれはまた自分が何をすべきか、自分に何ができるかということを聞いていくということでもある。誰かが、祈りとは神を変えるのではなく自分を変えることである、ということを言っていた。祈りとは神さまに自分のことを振り向かせて、こちらの願い事を叶えてくれるようにその気にさせる、というように神を変えることではなく、神の声を聞いて、神の御心を知って自分が進むべき方向を修正したり、自分がすべきことを知ったりするように自分を変えることなのだ。
私たちは何をすればいいのか、どっちの方向へ進んでいいのかいつも迷っている。これでいいんだろうか、こっちで正しいのだろうかと自信のないままに迷っていては全力を出せない。そうすると出来ることもできなくなってしまう。
コンピューターの配線をするような時にも、これで大丈夫だろうか、なんて思ってするときにはよくおかしな間違いをする。そんな時には差し込むのが中途半端だったりするような、自信持ってやればどうってことないようなミスをする。
だから委ねるということはそこから自分が手を引いて神に預けてしまうことではなく、自分自身も含めて神に預けると言うことなのだろうと思う。自分も委ねる、だから安心して自分の力を発揮できるのだ。委ねたから自分のすべきことを全力で出来るのだ。自分の力を完全に発揮すること。それが神に委ねるということだ。委ねたからその後は自分で何もしなくなるのではなく、委ねたから自分の力を充分に発揮できるのだろう。
誰かのために祈るということは、神がその人を守ってくれるようにと願うことでもある。しかしだから後は何もしなくていいというのではなく、祈ることでその人のために何が出来るかを聞いていくということでもあるのだろう。
祈ることと行動することとはつながっているのだと思う。祈ることと行動することとどちらが大事かというように比べることではない。
神の言葉
神の武具は神の言葉を聞いていくことから身に着けることができる。
神の言葉によって私たちは真理を知り正義を知る。そして救いを知り福音を知る。神の言葉によって私たちは神が私たちを愛してくれていることを知る。神の言葉によって、神の御心を知ることによって私たちは自分の進むべき道を知り、自分のなすべきことを知る。そして安心してそれをやっていくことが出来る。
敵
そこで私たちは敵の多いこの世の中を生きていくのだ。敵は神から私たちを引き離そうとする目に見えない勢力である。それは外から私たちを迫害するような力かもしれない。しかし実はそれよりも私たちの内から働きかけてくるもの、それこそが本当の敵なのかもしれないと思う。
私たちは自分の見栄や世間体に縛られて生きている。神の声に従うよりも、自分の見栄を満足させるものに、周りからよく思われること評価されることに心を奪われることが多い。あるいはまたお金や財産を持つことに心を奪われることがある。神の言葉よりも、常識やしきたりに縛られてしまうようなこともある。私たちの戦うべき敵は外にあるものばかりではなく私たちの内側にもあるようだ。人を裁き差別しさげすむような思いや、人をうらやみ妬む思いもある。私たちはえてしてそんな思いに縛り付けられ振り回されてしまう。神に従わずに、そんな思いに振り回されてしまうことがある。
私たちはそういう力に対してはとても無力である。だからこそ、そんな誘惑や策略に対抗するために神の武具を身に着けなければいけないのだ。神の言葉を聞いていかねばならないのだ。
神の言葉をしっかりと聞いていくことで悪魔の策略に対抗することができる。それなくしては対抗することはできないのだろう。神の言葉とはそれほど大事なのだ。だからその言葉を伝えることが出来るように、語るべきことを大胆に話せるように祈ってください、とこの手紙の主はお願いしているのだろう。今は鎖につながれているということだが、鎖がなくなることを望んでいるのではなく、語るべきことを話せることを願っている。
love letter
神の言葉とはそれほどのものなのだ。私たちに平安と希望と力を与えるものなのだ。だから聖書を読むことが大事なのだ。しかしなかなか聖書を読めないというのが現状だ。普段は聖書はあまり読まない、という声を教会の中でもよく聞く。あまり自信満々に言われると困ったものだと思う。聖書は読まなければいけないから読む、と考えると億劫になってしまう。触るだけでもいいのだ、と言う牧師もいるそうだが、本当は触るだけでは勿体ない。聖書は私たちを力づけてくれて私たちを守ってくれる言葉に満ちているのだ。そんな言葉がここにあるのにそれを読まないっていうのはきっととても勿体ない話しだ。
聖書はラブレターのようなものだと思う。ラブレターのように読めばいいのだと思う。神さまが自分のことをどんなに愛しているか、大事に思っているかそれを聞いていきながら読めばいい。変に文句言いながら読む必要はない。この言い方はおかしい、なんていちいちチェックするように読まない方がいい。ラブレターをもらったら、わざわざ誤字を脱字をチェックしようという気持ちで読む人なんていないだろう。相手が自分のことをどう思っているのか、どんなことを考えているのか、どんなことを望んでいるのか、そんなことを知りたいと思って読むだろう。聖書もそんな風に、神が自分のことをどう思っているのか、神はどう考えているのか、そして自分に何を望んでいるのか、そんなことを聞きつつ読めばいいのだと思う。愛する者からの手紙ならば何回も読むし、毎日読むことも億劫ではない。そんな風に聖書も読めばいいのではないかと思う。
その神さまからのラブレターを私たちもしっかりと読んでいきたい。そこに、平和と、信仰を伴う愛が生まれてくる。